永代橋は国の重要文化財。
東側橋詰には記念碑があります |
隅田川上流の隅田川大橋から見た
夜の永代橋 |
第22回では、中央区内を通る永代通りについて、通り沿いの日本橋兜町、日本橋茅場町、新川界隈などをご紹介します。
永代通りの中央区内最終地点となる永代橋。現在の橋は、清洲橋とともに関東大震災後の帝都復興事業の一環として計画されたもので、大正15年12月に完成しました(清洲橋の詳細については第18回・清洲橋通り後編をご覧ください)。 永代橋の歴史はとても古く、最初の橋が架けられたのは1698(元禄11)年、江戸幕府五代将軍・徳川綱吉の50歳を祝してのものだと伝えられています。架設位置は現在の橋よりも100メートルほど上流で、当時、深川の渡しがあった場所とされています。
橋の名前の由来には諸説あり、橋を渡す江東区側の付近一帯が当時「永代島」と呼ばれていたから、あるいは、幕府が末永く代々続くようにとの慶賀の意味から、とも言われています。江戸時代の永代橋は、眺望、納涼の名所として庶民に大変親しまれました。現在の橋も、日没後にはブルーの灯りでライトアップされ、その美しい姿は通りを行き交う人たちを立ち止まらせます。夜の永代橋は、中央区の「夜景八選」に選定されています。
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おもしろ発見 その3【こんにゃく島とも呼ばれていました】
日本橋茅場町から新川一丁目へ向かう途中、亀島川にかかる霊岸橋を渡りました。「霊岸」という聞き慣れない橋の名前は、江戸時代初期に霊巌上人が、海だったこの辺りを陸地にして霊巌寺を建立、その後、周辺が霊岸島と呼ばれたことに由来しています。
霊岸島は、埋め立て直後は地盤が非常に柔らかかったことから、「こんにゃく島」とも呼ばれていたそうです。霊岸島という地名は、昭和46年の住居表示制度改正によりなくなってしまいましたが、橋名や交差点名として残り、今にその歴史を伝えています。
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オフィスビルの合間に酒問屋があります
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おもしろ発見 その4【酒問屋が今も新川にある理由】
新川一丁目周辺の裏道を歩いていると、時折、お酒の問屋さんを見かけました。そういえば…と、第16回・鍛冶橋通り後編のおもしろ発見その4で「新川の跡」の記念碑を訪ねたことを思い出し、なるほど合点がいきました。
江戸時代の新川一丁目周辺は、上方から江戸へ送られてくる「下り酒」を扱う問屋街として賑わい、江戸市内の下り酒問屋のほとんどが新川にあったと言われています。
加えて、1660(万治3)年には、食用油脂に関する卸売販売業者の協同組合である現・東京油問屋市場の前身、油仲間寄合所が設立。下り油の売買所として定められ、以後、油問屋も多数軒を連ねていったそうです。
現在の新川周辺に、酒造や醸造、食用油の会社があるのはこうした歴史を受け継いでのこと。しかし、最近ではオフィスビルやマンションも多く建ち並び、往時の面影はごくわずかとなっています。
別の酒問屋では荷下ろしをしていました |
周辺はマンションやオフィスビルが
目立ちます
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