第16回では、中央区内を通る鍛冶橋通りについて、通り沿いの八丁堀、新川界隈などをご紹介します。
鍛冶橋通りの最終地点である新川1、2丁目は、北を日本橋川、東を隅田川、西と南を亀島川と、四方を川に囲まれた一つの島です。このことから、新川は江戸時代には城下へ物資を運ぶ船が頻繁に行き来し、材木、酒、油などの問屋で賑わっていたそうです。
明治に入り、築地に活版製造所が作られると、銀座地区に新聞社、築地界隈に出版社、印刷会社、製本会社が数多く集まるようになりました。こうした町の変化は新川や八丁堀一帯にも及び、現在でも中央区の印刷、製本会社の多くがこの地域に集まっているそうです。
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おもしろ発見 その3【公園にある巨大な石の正体とは?】
現在、越前堀児童公園のあるこの一帯は、江戸時代には越前福井藩主、松平越前守の屋敷がありました。当時、屋敷の三方が入堀に囲まれていたため、この入堀は通称「越前堀」と呼ばれていました。明治には「越前堀」がそのまま町名になりましたが、戦後、入堀が完全に埋め立てられ、昭和46年の住居表示制度の実施で町名も現在の新川になったそうです。公園内には、平成18年の新川2丁目発掘調査で出土した入堀の石垣の一部が、説明板とともに展示されています。
公園内に展示されている入堀の石垣 |
越前堀児童公園内
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おもしろ発見 その4【新川というからには川があったはず】
新川という地名があるからには、その昔、近くに新川という川が流れていたはず。そう思い、新川界隈を探索すると、隅田川沿いにある新川公園内に「新川の跡」と記された記念碑を発見! 新川は、現在の新川1丁目3番から4番の間で亀島川から分岐して、この説明板のある付近で隅田川に合流する運河だったそうです。船による物資の輸送などのために、万治3年(1660年)に開削したと伝えられており、両岸は初めは材木問屋、のちに酒屋の問屋街となり、大変繁盛していたそうです。ちなみに、新川は昭和23年(1948年)に埋め立てられました。
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