第15回では、中央区内を通る鍛冶橋通りについて、通り沿いの八重洲、京橋、八丁堀界隈などをご紹介します。
中央区内を通る鍛冶橋通りは、外堀通りと交差する鍛冶橋交差点から東へ、八重洲、京橋、八丁堀、新川を通り、永代橋西交差点まで続く通りです。鍛冶橋交差点の西側、千代田区方面へ進めば、馬場先門交差点で国道1号線と交差し、その先は二重橋前交差点で内堀通りと交差します。
通りの名前は、鍛冶橋交差点のすぐ西に戦後まであった鍛冶橋に由来しています。鍛冶橋交差点には鍛冶橋跡を記した説明板があります。それによると、現在の鍛冶橋交差点とJR線の間には江戸城の外濠があり、鍛冶橋が架けられ、同橋の先に江戸城の外郭門の一つ鍛冶橋御門があったそうです。「鍛冶」という名前の由来は、橋の東側にあった南鍛冶町(現在の八重洲2丁目あたり)に由来していると考えられています(門と橋の歴史については「(1)鍛冶橋交差点」へ)。
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おもしろ発見 その1【公園内のモニュメントはもう一つの弾正橋】
弾正橋の両側にある公園内に、小さな橋を発見! 今の弾正橋とは似ても似つかぬその姿。近くに設置されていた石碑によると、この小さな橋は明治11年に架設された旧弾正橋を象徴化したモニュメントとのこと。旧弾正橋は、当時の工部省により、日本最初の国産の鉄を使った橋として架設されたもの。同橋の実物は現在も江東区富岡1丁目の八幡堀遊歩道に保存、設置されており、近くに富岡八幡宮があることから「八幡橋」と名称を変え、人道橋として親しまれています。
公園内にひっそりと佇む旧弾正橋のモニュメント
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現在の旧弾正橋(八幡橋)。
昭和52年に国の重要文化財に指定されています
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おもしろ発見 その2【八丁堀、与力、同心、時代劇】
「八丁堀」と聞くと、さまざまな時代劇を連想します。八丁堀3丁目の京華スクエア前にある「八丁堀の与力・同心組屋敷」説明版によると、実際に与力と同心たちが住んでいた屋敷は、現在の八丁堀1〜2丁目、日本橋茅場町1〜3丁目にあったそうです。江戸初期にはこの辺りは寺町で、寛永12年(1635年)に江戸城下の拡張計画が行われ、多くの寺が郊外へ移転し、そこに与力、同心の組屋敷が建てられました。ちなみに与力は徳川家の直臣、同心はその配下の侍衆。南北両町奉行所には、合わせて与力50名、同心280名が勤務していたそうです。
八丁堀3丁目付近から同1、2丁目方面を臨む |
京華スクエア前の説明版
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