兜町は明治以後、当時経済界の指導者であった渋沢栄一によって計画され出来上がった日本で始めてのビジネス街です。その渋沢栄一の住まいが兜町にありました。渋沢栄一の東京での住まいで代表的なものは5つありました。1876年(明治9年)に入手し改築した深川の自邸、1879年(明治12年)に王子の飛鳥山に新築の別邸、そして1888年(明治21年)に第一国立銀行のある兜町の一画に家を新築し、そこに本邸を移しました。その後は1901年(明治34年)に飛鳥山の家を建て替え兜町から本邸を移し、さらに1910年(明治43年)には、三田の綱町に子息の渋沢篤二のために家を建て、そこに深川の家の一部を移築して本邸にしました。
その他に渋沢栄一ゆかりの建物には、王子の飛鳥山に清水建設が渋沢栄一の喜寿のお祝いに送った「晩香廬(ばんこうろ)」、渋沢栄一を慕う人々の財団竜門社が傘寿のお祝いに送った「青淵文庫(せいえんぶんこ)」の二つの建物が現存しています。また、渋沢栄一の生誕地である埼玉県深谷市の大寄地区の公民館には、第一銀行が「晩香廬」と同じく喜寿の時に世田谷に建てた「誠之堂(せいしどう)」が移築されています。これらの建物は二代清水喜助をはじめ、清水建設が手がけています。
渋沢栄一は1840年(天保11年)現在の埼玉県深谷市で生まれました。幕臣として徳川慶喜に仕えた後、明治新政府においては大蔵省に出仕、新しい国づくりを精力的にとりくみました。そして明治6年に大蔵省を辞し、自ら創立に関わった第一国立銀行の総監役に就任、明治8年には頭取に就任し、長くそこを拠点にして様々な業種に亘り数多くの株式会社の設立を進め経営を指導しました。常盤橋公園(第4話 常盤橋参照)には渋沢栄一の功績をたたえ、その銅像が建てられています。 |
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