『江戸』のまちづくり


日本橋・京橋・八重洲の誕生−江戸湊の整備−<江戸湊の整備、江戸の第二次建設>

1603年に家康はついに天下を取り江戸に幕府を開き、ここに『天下普請』による大事業を開始します。これから約40年間の徳川三代の将軍により世界に類を見ない巨大なまちづくりが行われます。
まず、当時の神田山を切り崩し日比谷入り江を埋め立てる大事業にとり組みました。それまで半島のようになっていた江戸前島は江戸城と陸続きになると共に日本橋、京橋は掘り割りはあるものの現在の地形を思わせる地形になりました。現在の東京駅周辺の外堀から千鳥ガ淵に至る江戸城の形は完成します。東海道は家康時代に青山通り辺りまで通じていましたが、この大事業で品川を経由して海沿いに江戸の街に入り今の銀座、京橋を通り道三堀につながる平川に達するようになりました。そしてここに大きな橋がかけられ日本橋と名付けられ、江戸から各地への道の原点となる五街道の起点となりました。『日本橋』は江戸の中心であるばかりでなくまさに日本の中心である事を明解に位置付ける命名であったといえます。
また京都へ向かう最初の橋は京橋と名付けられました。オランダ人ヤン・ヨーステンは日比谷入り江の埋め立てを家康に提案したといわれていますが、彼の屋敷は馬場先門外の堀端にありその辺りを人々はヤン・ヨーステン河岸と呼んだらしくその後に訛って八代洲河岸と呼びました。明治5年に八代洲は八重洲となり今日に及んでいます。
しかし、小石川沼から流れ出る平川はしばしば氾濫し江戸の街を悩ませていました。次はこの難題の解決に着手するのです。
江戸湊の整備
江戸湊の整備〔出典:「江戸の町(上)-巨大都市の誕生-」内藤昌 著/穂積和夫 画 草思社〕


江戸の第二次建設
江戸の第二次建設 1608年(慶長13年)ごろ 『慶長十三年江戸図』による〔出典:「江戸の町(上)-巨大都市の誕生-」内藤昌 著/穂積和夫 画 草思社〕
NEXT CONTENTS
江戸は世界一の巨大都市 江戸の原風景<江戸の原風景>
徳川家康の入城<江戸の第一次建設> 陰陽学がもとになる江戸のまちづくり<四神(しじん)相応の地形>


back