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江戸時代の始めまで、銀座の町は海のなかにありましたが、当時の幕府は江戸の町を造るため、大名たちに命じて埋め立て作業を行い、今の地形が完成しました。
1872(明治5)年の銀座大火の後、銀座は煉瓦街とガス灯に象徴されるモダンな町並みに変身しました。また外国人居留地の築地に近く、当時、政治・経済の中心であった日本橋・丸の内と隣接していたことから、新聞社や通信社などが続々と進出し、銀座は日本一の情報発信地になりました。さらに同年鉄道が、1882(明治15)年には鉄道馬車が新橋を出発点として走り始め、人や物が交差する交通の要所としても成長しました。
1877(明治10)年、日本各地の工業・手工業製品を一同に陳列した「内国勧業博覧会」は、大変な盛況を呼びました。そのため博覧会後も常設施設「勧工博」が各地に設置されるなか、銀座には最盛期に8軒でき、現在の「ショッピングの街・銀座」の先駆けになったとも言われています。
1923(大正12)年の関東大震災では、銀座の街も大打撃を受けましたが、その復興作業によりそれまで四丁目しかなかった街が八丁目まで拡大し、今の姿になりました。
太平洋戦争後、銀座は他の街と同様に焼け野原からの再出発となりました。1945(昭和20)年9月8日にアメリカ軍が東京に進駐し、服部時計店(現株式会社和光)や株式会社伊東屋などの主だった施設が軍駐屯地内の売店や娯楽施設として接収されました。英語の看板が並び、ダンスホールやキャバレーが流行り、街は一気に活気を呈しました。
1964(昭和39)年の東京オリンピック開催により、さらに勢いが付きました。同年、地下鉄日比谷線の東銀座から霞ヶ関間が開通し、銀座総合駅が誕生するなど、急速に近代化への道を進みます。
1968(昭和43)年、「明治百年」を記念して大銀座まつりが開催。これは1999(平成11)年まで催され、メインイベントであった「光と音のパレード」には、約50万人もの人が集まるほどの盛況ぶりでした。
こうした歴史を経て、銀座の街はモダンな雰囲気と格調の高さを誇る日本有数の商業都市となり、現在も多くのお客様を迎えています。 |
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