■歴史 |
江戸時代初期、この辺り一帯は海辺の葦が茂る湿地帯でした。天正18(1590)年、徳川家康の江戸入城後、江戸城の増築等に次ぎ、商業地として造成し町割が行われました。家康はここを地租税免除としたため、伊勢・大阪・京都・奈良等から商人や職人が多く集まり、江戸の商工業の中枢となりました。
慶長6(1601)年日本橋本石町に金座が置かれました。その二年後には、日本橋が架けられ、その翌年、橋が五街道の起点に定められ、全国から人々が集まり江戸随一の賑わいを見せました。更に、江戸の初期から、関東大震災で築地に移転するまで橋北詰東側一帯に魚市場があったことも、多くの人達が集まった一因となりました。
橋南詰めには、江戸時代、御禁制や公示の掲示をした高札場があり、その反対の東側には、罪人などを人目に触れさせる晒場がありました。幕府の「秤座の制」により、天保13(1842)年から明治8(1875)年まで、現日本橋3丁目に「江戸秤座」が置かれ、明治時代には、日本橋1丁目に「食傷新道」とも言われた横丁「木原店」が出現。多くの飲食店で賑わい、日本橋繁華街の要として栄えていました。
現在は、高速道路や、近代的なビルの建設等で、古くからの景観は失われていますが、江戸や明治から続く商店や史跡等が今尚残り、江戸の歴史を偲ばせています。 |
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