■銀座の歴史 |
銀座一体は、徳川家康入府後の慶長8(1603)年、神田山を崩して埋立てたものです。江戸の初期、幕府が銀座2丁目あたりに銀座役所を置き、両替店などを設け、正式には新両替町と呼ばれていました。「銀座」は通称名で、明治2(1869)年に、銀座1〜4丁目が正式名称になりました。亨和元(1801)年、銀座は、日本橋蠣殻町に移転し、現在銀座と呼ばれている地は、江戸期を通じて武家屋敷の全くない商人や職人の町でした。
明治5(1872)年の大火を機に、5年の歳月をかけ、煉瓦街が造られました。ここで、馬車道に舗装歩道、そして桜、松の並木路といった、文明開化を象徴する景観が生まれました。同20(1887)年に街路樹は柳に統一され、その後約30数年に渡り、柳は街の象徴として人々に長く愛されました。
大正12年の関東大震災で、煉瓦街は壊滅。それまで商業地というよりは、多くの新聞社が並ぶ新聞社の街でしたが、街の復興に伴い、百貨店等が続々進出し、大正になり誕生したカフェーが全盛期を迎え、白いエプロン姿の女給さんが街の名物になりました。
昭和5(1930)年には古くからの町名が銀座5〜8丁目となり「銀座八丁」が完成しました。同33(1958)年の高速道路の完成、同45(1970)年の全国に先立った歩行者天国の開始等、様々な経過をたどりながら、街は現在に至り、更なる発展を続けています。 |
|