創立130周年の泰明小
学校要覧には「銀座みゆき通り。そこに、蔦のからまる校舎があります…」と紹介されている。
関東大震災の後、「復興小学校」として建設され、「機能性と安全性を重視した建物はリズム感のある連続した半円形の窓など表現主義の影響が見られる」として、東京都の歴史建物に指定されている。さらに東京の建築遺産50選の1つにも選ばれている。
昭和20年1月の空襲により教員4名が殉職している。さらに5月には焼夷弾百数十発を受け、校舎の殆どを焼失、6月から銀座教会を借りて教育を続けた。
教育目的は「よく考える子ども、思いやりのある子ども、たくましい子ども」で、金管バンドは銀座のイベントにも参加して知られる。
創立100年の明石小
外国人居留地の名残りのある明石町に「外国人に見せて恥ずかしくない学校を」との東京市長のすすめで明治41年に創立。この「コ」の字型校舎は関東大震災で焼失。
大正14年から建設された新校舎は聖路加国際病院に隣接している立地条件が幸いして戦災はまぬがれたものの、20年9月の連合軍進駐で全施設が接収され、集団疎開から帰京した児童は鉄砲洲小や二中を借りて授業を再開した。
ドッジボール選手権全国大会で平成18年には、優勝している。
創立は明治21年
120年の佃島小学校
昭和63年6月にリバーシティ21の一角に新校舎が完成し、10月29日に、その校舎で開校100周年の式典を挙行した。
創立は明治21年、佃島42番地の85坪の校地に始まる。同26年に月島に橋が架かり道路が校地を通るため、月島西仲通りの入口・250坪の校地に移転した。
徳川家康の入府とともに同行した大阪佃村の漁民により佃島は造成され今日に至っている。その縁で大阪市立佃小学校と姉妹校を結び、今年は44周年になる。元佃と呼ばれる佃1丁目は昔のたたずまいを残し、赤い佃小橋と高層住宅群とのコントラストが評判。
120年式典に大阪佃小の交換会も予定。
昭和22年創立
40周年の晴海中学校
昭和22年4月1日、六三制の新しい学制にもとづいて創立。校舎は深川越中島都立第三商業高校の6教室を借り、入学式は5月1日、佃島小学校で挙行した。
この創立時について、「中央区教育百年のあゆみ」では次のように記している「創立当初、都立三商の3階の間借の生活で発足し、毎週の生徒週番の引継ぎは、同じ間借の同居校であった深川三中と、3校合同で行なうという不自由な生活の中で、他校の生徒と進んで仲良く協力しあって、一日一日を楽しく、意義を感じて学校生活を送って来た。このような生活と地域性の中から、自然に生まれてきた気風が本校の校風といえよう。すなわち「和」であり「明朗」であり「自発性」である。逆境の中でも卑屈におちいらず明るさを失わない面が見られた。その反面、粗野で荒っぽくて、礼儀作法など無頓着であった」
昭和43年創立
20周年の佃中学校
昭和63年4月、区立第三中学校から分離・独立して発足。校舎はリバーシティ21に佃島小学校と並んで建設された。落成式は同小学校と合同で行われた。校歌は日本橋蛎殻町生まれ育ちの高田敬子さんの作詞。新しく造成された土地にふさわしい歌詞として評判に。
学校要覧では「特色ある学校づくり」として次のように記している「やっぱり佃・さすがの佃=TSUKUDAブランドを創る<人間力を育て一人一人の個性が光り輝く学校>をキャッチフレーズとした学校づくりを目指す」
平成6・7年度は文部省研究指定校として「各教科・領域におけるコンピューター教育機器のあり方」に臨んでいる。
第20回卒業生は84名。第21回の新入生は91名であった。 |