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プロフィール
昭和44(1969)年1月21日、日本橋の生まれ。
株式会社鹿島組勤務。火消しの世界には子供の頃から関わり、ろ組の一員として19歳の時に梯子持ち、25歳の時に纏(まとい)持ちとなり現在に至る。お住まいは木場。
 
お生まれは中央区ですか?


 生まれは永代通り沿いの八重洲1丁目で、あとは日本橋3丁目に住んでいました。小中学校は千駄 ヶ谷だったのですが、感覚的にはずっと自分は中央区の日本橋の人間だと思っています。

 
お仕事につく切っ掛けは?


 仕事に着いたのは早く、父に言われて選択の余地も無かったのですが、半纏(はんてん)の方(火消しの仕事)は、物心がついた時には手を引っ張られて出初め式などに行っていましたので、自然にとけ込めました。

 
現在のお仕事について、お聞かせください


  今、働いている株式会社鹿島組は鳶、土木、建築施工、ビル警備、ビルメンテナンスの会社です。今は建設不況なので鳶の仕事は減ってきていますので、割合から言えば、ビル警備とメンテナンスの仕事が増えてはいます。もともと、鹿島組は柳家の抱え鳶であったのが発祥です。正確には分かりませんが、少なくとも私で6〜7代目になるのではないでしょうか。  日頃は建設現場で働いていますが、鳶というのは幅の広い仕事です。皆さんは足場を組んで高い所で働くのが鳶だと思っているかも知れませんが、それだけではなく、穴を掘る基礎工事から杭やコンクリートを打って鉄筋を組んだり足場を掛けたりするのは全て鳶の仕事です。それに加えて昔からの町の仕事があります。今は少なくなりましたが、お正月の門松の準備をしたり、お祭りがあれば神社の御神酒所(神様を祀る場所)を組んだり、矢倉を組んだりするのも鳶の仕事です。丸太と竹だけで組む御仮屋(お神輿を飾る場所)は図面 が無く、大工さんの仕事ではないんですね。これは鳶にしかできなかったのでしょう。
 
半纏の仕事(火消しの仕事)についてお聞かせください


 ご存じのように、歴史的には鳶の頭(かしら)イコール火消しの頭です。私には鹿島組の社員である一面 と同時に半纏の仕事があります。半纏の仕事で稼いでいる訳ではありませんが、自分ではこちらが本業であると言う意識はあります。  半纏の仕事はいろいろとあります。木遣りや梯子乗り、纏持ちの稽古が月2回で寄り合いが月1回。新年の儀式、成田山にお参りに行ったり、川崎大師の木遣り塚に詣でたり、江戸時代も含めたかつての火消しの頭たちの墓参会が年に2回……。少し前までは7のつく日は選手会といって梯子に乗る人が集まって稽古をしていましたので、月の3分の1は半纏を着ている感じでした。これまで続いて来たものですから、大切にしたいと思います。火消しのことも消防団も、ボランティアではなくて仕事だと思ってやっています。
 
今、関心のあることは?

 今、関心があるのは昭和初期の消防活動と町の話です。今の頭のお父さんの世代の話ですね。自分なりに文献を読んでいろいろと調べています。江戸時代まで遡ってしまいますと、時代劇の世界になってしまいますので、もっと身近な昭和の方が、今は関心が持てます。帝国ホテルの火事の話を聞くと、ガードに纏が並んだと聞きます。資料がいっぱいある訳でもないので、実際に纒持ちが火事場に出たとうかがい知れるところが面 白いのです
 
中央区の次の世代にをになう若者として何かおっしゃりたい事は?


 私自身もまだ若いのですが、次の世代に敢えて言うなら、今のままを続けてほしいですね。何か新しいことをしようとしても、日本橋は300年以上続いている歴史ある町ですから、そう簡単にはできないと思います。ここは代々続いている細かい人間関係が息づいている町です。実際に生活の中に根付いているものを大切にしていきたいと思いますし、大切にしてほしいと思います。
 
伝統の継承を大切にしている意思が、強く伝わってきました。中央区日本橋界隈の生活の中に残る細やかな人間のつながり、それを自分の日常として自然に受け入れている姿。そこにこそ、この町の歴史と現在を違和感なく受け入れる若者の今を垣間見た思いです。

2001年3月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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