この小網神社の社務所(中央区日本橋小網町16ー23)で幼少の頃より生活しています。この建物は17年前に建て替えていますので、私が生まれたのは前の社務所です。東華小学校(現在は統合されて日本橋小学校)に通い、中学校から私立で区外に出ました。小学3年生から中央区のリトルリーグで硬式野球をし、他区のチームとよく試合をしました。それが中央区を意識したはじまりです。遊び場はこの辺りで、今の浜町公園や堀留公園(現児童館)の野原で野球を楽しんだものです。ただし、当時は高度経済成長期で環境よりも繁栄が最優先される時代でしたから、日本橋川は今よりも汚れていて、川で遊んだ記憶はありません。 大学では法律を専攻し、卒業後に国学院大学の神道学専攻科で神道について勉強をし、資格取得後は当社の神職に従事しています。 昨年の2月からは地域の活性化のお手伝いとして日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会の企画部長をお引き受けしています。部長という役目は神主が地域の声を神様にお伝えすることと似ている面もあります。会がある度に勉強させていただいていますが、私としても、お祭り以外に地域の、しかも同年代の方々と接することができて嬉しく思っています。
当社には小網稲荷大神と萬福舟乗辧財天など数柱の神様がお祀りされています。およそ1000年前と言われますが、萬福庵という観世音と辧財天を祀る庵ができました。文正元年(1466)にこの地に疫病が流行した時、一人の老人が海で稲穂を拾いこの庵に泊まったのです。その夜、庵主の夢まくらに恵心僧都が立ち、その老人を稲荷大神として祀れば疫病は止むとお話になりました。翌朝、老人は姿を消していましたが、庵主は老人を小網稲荷大明神と称え、神社を創建して祈った結果、疫病は止みました。それが小網稲荷神社の起こりです。また辧財天ははじめ近隣にあった萬福寺に安置されていたのですが、明治の神仏分離で当社に移され、今日に至ったものです。服部家は曾祖父の代、明治初年のころから小網神社の宮司をしておりますので、辧財天が移されたのは曾祖父の時代でしょう。535年前のはじまりから、小網神社の宮司は私で22代目となります。禰宜となったのは昭和63年です。ちなみに末廣神社は13代目で、平成9年に宮司になっています。