江戸時代、徳川家康が入国すると、江戸城の築城と同時に、城下町の整備にとりかかります。日本橋の大通りから、浅草橋に通じる通り一帯を商業地と定め、近隣の地域は一大歓楽街として発展しました。人形町は、江戸歌舞伎発祥の地で、芝居小屋が多くできましたが、芝居見物はなかなか高価な遊びでした。そこで、一般庶民向けには、人形を操る小屋が繁盛しました。およそ6000坪の地域に、人形を操り浄瑠璃を語り芝居をする小さな小屋が、立ち並んでいたそうです。その人形を作る人、操る人たちが住むようになり、江戸の人たちに「人形の町」として知られるようになりました。それが町名の由来となり、正式に人形町となったのは昭和になってからです。私のいるところ一帯はもとは蛎殻(かきがら)町と言われていました。
また、かつて吉原の遊郭があったのもこの界隈です。広大な武家屋敷が建ち並び、水天宮の門前町でもありました。明治に入り芳町の花柳界、料亭街としても栄え、現在も人形町大通り、甘酒横丁など、独特の雰囲気をもつ下町の繁華街として活気溢れる町です。人形町には下町情緒があると言う方もおられますが、言葉で説明するのはむずかしいのではないでしょうか。実際にここに住んでいる我々には分かりませんが、池袋、新宿、渋谷などとはやはり違った町の雰囲気があります。子供の頃はおかずを分けあうなどの近所付き合いは密接でしたし、今とは異なりともかく子供が多かったです。和服の仕立て屋、三味線屋、つづら屋など、職人さんたちも大勢いましたね。しじみ売り、納豆・豆腐売り、甘酒売りなど、てんびんを担いで通りを売り歩く「声」と姿はなつかしい光景です。
きっかけは床屋談義といいますか、父と店で仕事をしながら、町内のお年寄り、寄席の芸人、芸者衆など、お客様がいらっしゃると、地域に関する古い話がおもしろおかしく語られるのです。聞いている分には楽しいのですが、
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