金春祭りの期間は毎年、8月初めの1週間、装束の着付けや謡の指導などの「能楽講座」をはじめ、銀座金春通り会各店によるワークショップやウォークラリーなど楽しい催しも行われています。
私が銀座の郷土史に興味を持ち始めたのは、住まいをこの地に移してからです。住む前とくらべ、町に対する愛着の度合いはよりいっそう深くなりました。地域の活動を進めていく中で、地域についての知識が無いことに気づき、郷土史の研究(勉強)にさらにのめりこみました。元来、好奇心、知識欲旺盛なたちですので、書籍や資料はもとより、いろいろな方々から話を伺う機会が増えました。その中でひとつ疑問に思ったのが「銀座は埋立地」という説でした。ビル建てかえ工事の現場で実際に目にした地下水の湧き出しや、比較的浅い地下から塩分を含まない真水が出ていたという古老たちの話、またこの一帯はかつて南紺屋町と呼ばれ染物屋さん(染物にはふんだんな水が必要)が多く集まっていた、などの史実から総合的に考えると、新橋の辺りまでは張り出した半島部・江戸の前島で、「銀座埋め立て地説」は間違いではないかという仮説のもと、その証拠となる地下水脈、井戸跡探しの調査に熱が入りました。聞き込み調査で15箇所ほどの湧水箇所が確認され、さらに明治期の古地図の記載にある30数箇所の井戸跡を加えると、その数は50箇所にも及びました。これだけの地下水脈は、銀座のたいせつな“埋蔵文化遺産"であるに違いありません。湧水マップ作成に携わって感じたことは、堀割、水路を利用して栄えた江戸の町、水の都と言われた中央区から、いかに水が消えてしまったかということでした。掘割が埋め立てられ、水が消えて、住む人が激減していった。浅くても、細くても、わずかなせせらぎ(疎水)でもいいのです、この地域に水の流れを再びとりもどすこと、それは防災と景観の観点からも、また、自然や地域の歴史を残すためにも、いまこそ銀座に必要なことだと思います。
今年の夏には、柳を贈った岩手県啄木のふるさと、玉山村から蛍500匹の返礼があり、7月には小屋を作ってその中に蛍を放ち、銀座の街中で「ほたる鑑賞会」も行われました。その光景を見るにつけ、「ここにせせらぎが流れていたら・・・」と切実に思いましたね。
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