三田会長の幼少時代、おそらく明治末から大正初めにかけての実体験に基づいた、非常に貴重なお話です。 日本橋は言わずと知れた五街道の中心です。そして江戸八百八町に張りめぐされた水路の中心でもあったのです。道路と水路の中心、今で言うターミナルポイントなのですから、人と物と金が集まるのは当然です。榮太樓總本鋪の相談役を務めていらっしゃる細田安兵衛さんが次のように日本橋魚河岸を語ってくれました。 「江戸以来の日本橋の繁栄は、やはり魚河岸によって支えられていたことが非常に大きかったのです。魚河岸によって経済、文化の中心となり、情報の発信地でもあったのです。船が魚河岸に集まってくる、参勤交代の大名行列が日本橋を通る、その意味で情報の中心だったとも言えるでしょう。鹽河岸や青物町があり、魚だけでなく江戸庶民の台所を支えていました。私の店もそうですが、我々江戸に生まれた商人は、何らかの形で魚河岸に支えられて発展してきたのです。榮太樓總本鋪も、魚河岸で金鍔を売ったのがはじまりです。京のお菓子のように雅や詫び寂びを求めるものではなく、労働者のエネルギーを補充する目的ですが、そこには江戸のお菓子の良さがあったのです」 細田安兵衛さんのお話しのように、日本橋魚河岸は日本橋地区を発展させたのです。江戸の中心に魚河岸があったのか、魚河岸があったから江戸の中心になったのか。それは何とも言えません。しかし、魚河岸は今や日本橋にはありません。天正時代から大正時代まで日本橋に空前の繁栄をもたらした魚河岸、そして今、「かつての魚河岸に代わる求心力のある何か」が必要になってきます。それを探る日本橋地区の皆さんの努力は、日々続いています。