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HOME > 特集 > 中央区都市観光編 > 第3回 中央区の魚河岸物語り〜日本橋編
 
 


も散って一月経ちますと、江戸時代中期の俳人・山口素堂の「目に青葉 山ほとゝぎす 初かつを」という俳句を思い出すのは私だけではないと思います。東京でホトトギスの鳴き声を聞くことは稀でしょうが、新緑の清々しさは目に染み入ります。そして初鰹の季節です。
 刺し身は関東では鮪、関西
では鯛。中でも上等のトロが珍重され、寿司屋で「鮪の良いのを入れないと商売にならない」と板前さんが言っているのを聞いたことがありますが、鮪が一番となったのは実は戦後のこと、江戸から続く歴史の中ではつい最近のことです。かつては鯛、鯉、鰹が珍重されたと言います。
 また現在は魚河
岸と言えば築地、しかし築地に魚河岸ができたの近年のことで、魚河岸の歴史は80年弱です。それ以前の330年、魚河岸といえば日本橋でした。
 
初鰹と江戸っ子
 初鰹は4月の終わりから5月の初めにかけて取れる走りの鰹を指します。季語は夏。以下の江戸時代の俳句は初鰹を読んだ代表的なものです。

目に青葉 山ほとゝぎす 初かつを(素堂)
かまくらは いきて出でけん 初かつを(芭蕉)
楊貴妃の 夜は生きたる 鰹かな(其角)
また、次のような川柳もあります。
女房を 質に入れても 初鰹
初鰹 一両までは 買うつもり

 鰹は確かに人気のある魚でした。しかし、「日本橋の魚市、大には鯨、小には鰯、貴品には鯛、鰈等があるなかにも堅魚は近海の名産にして、四月八日の初市には、衣を典し衿を売るも必ずこれを食ふの旧習民間に行はる」「江戸にて初ものゝの最も賞せらるゝは鰹なり。類柑子、初字に一朝を争ひ、夜字に白金を軽んじて、まだねぬ人の橋の上に彳みあかすまゝに、一片の風帆をのぞんで、早足を待ちて公門に入る時、鬼の首とる心地しけり……」という資料があるように、初鰹は特に人気があり、とてつもなく値段も高いものだったようです。天明年間(1781〜1789)の資料によると初鰹は、2〜3両もしました。
 今の年収にあたる石高でみると、江戸の侍の中で旗本は500石以上1万石未満、御家人は500石以下でした。ちなみに1万石以上が大名です。自称貧乏御家人だった勝海舟が家督を継いだ時は年収41石。「おれが子供の時は非常に貧乏で、ある年の暮れなどには、どこでも松飾りの用意などをしているのに、おれの家では餅を搗く銭がなかった」と後年語った逸話があります。直参の御家人とはいえ、江戸庶民とそれほどの差はない生活だったのでしょう。江戸時代の石高が200年変わらなかったという前提で考えますと、天明年間だと米1石≒銀59匁です。すると勝家の年収は2419匁≒40両。その中からの鰹一本に2両は、ちょっと高いかなと思いますが、江戸っ子たちはまるで平気だったようです。橋の上から初鰹の入荷を一晩中見張っていたくらいですから……。金なんか問題じゃない!! 江戸っ子の心意気だ!! てなところでしょうか。熱意は今にも伝わります。

 江戸時代のお金の公式な基準は「金1両=銀60匁(6分)=銭4貫文(4000文)」ですが、これは非常にファジーなものだったようです。例えば元禄年間は「金1両=銀4分」だったようです。換算が難しいのですが、かけそば一杯が10〜16文だったことから考えてみると現在では400円くらいでしょうか。すると金1両は10〜16万円になります。ですから初鰹一本の値段は20〜48万円ということになります。昭和の初期ですら、一本が今の20万円くらいしたという話が残っていますので、あながち的外れではないようです。今春、青森・大間沖で取れた本鮪に2000万円の値がつき話題を呼びました。魚体の重量で換算すると、江戸の初鰹はそれに該当します。つまり江戸時代の毎年この季節には、今春の本鮪の大商いと同じような規模のものがいたるところで起きていたのです。当時の魚河岸の活気が忍ばれます。

 もともと魚河岸は江戸城に魚を献上するために作られたものでした。それならば江戸城の住人たちは初鰹をまっ先に食べていたかというとそうでも無いようです。次のような資料があります。
「初鰹のごときも、始めて着荷するときは御届けの上之を上納すべき定めにして、其の値段は最初二貫五百文より、漸々減価して、終には一尾百文となれり……。市価又非常に高騰するをもって、魚問屋も、真の初鰹は、百方之を隠蔽して、御納屋に納むることを為さず、偶々御納屋役人の目に懸かりて、初鰹なることを談ぜらるゝときは、『否、之は初鰹魚にあらず、古瀬なり』と答へて、上納の厄を免れたり」

 「上納の厄」というのが凄まじい話です。結局、「幕府大奥の食膳に上がるものは、すでに市民の口に飽きたる頃なりけり」というのだから、将軍も辛いものです。これでは落語の「目黒の秋刀魚」ができるわけで、本当に美味しいものは食べられなかったのでしょう。高級武士階級を陰でからかうような江戸っ子の反骨も、初鰹の高値には潜んでいたのかもしれません。
 
日本橋魚河岸  
日本橋北詰の東にかけて魚市場がありました。今の日本橋本町一丁目あたりの日本橋川岸の一帯です。それに伴い本船町、安針町、長浜町、室町、本小田原町が市場区域とされていました。はじまりは天正18(1590)年。摂津の国(今の大阪と兵庫の一部)西成郡佃村の名主、森孫右衛門が一族7人と佃村、大和田村の漁夫30数人を引き連れて江戸にくだり、佃島(中央区佃)を開き、東京湾での漁業を始めました。この時取った魚介類を江戸城の台所に納め、残りを一般に売り出すようになったのが、日本橋の魚市場のはじまりと言われています。ちなみに森孫右衛門は徳川家康が関西にいる時には、渡し船の手配と魚の供給を行い、大阪の陣では船で敵の情報も集めたと言いますから、かなり信頼されていたとみて良いでしょう。なお、この後も摂津の佃村と大和田村から江戸に移住して魚問屋になる者が多かったと言います。魚河岸といえば一心太助の例にもあるように、江戸っ子の心意気が充満している場所とされています。もともとは関西の人間が起こした魚河岸ですが、一心太助の時代、魚河岸の創成期からおよそ40年ほど経た1630年ころには、侠気に富んだ魚屋気質が生まれていたと想像されます。
 江戸幕府が開かれて安定した後、江戸の人口は爆発的に増えます。当然、魚の消費量も漁獲量も増え続け、そして魚河岸も発達し続けました。
 「日に千両 鼻の上下 へその下」という川柳があります。1日に千両動くという意味で、江戸の三大消費地である芝居と魚河岸と吉原を讃えたものです。発展、不正と糾弾、制度の改革といつの世も利の絡むところにはつきものの段階を経て、日本橋魚河岸は拡大していきました。その原則は明治になっても、大正になっても変わらず、大正12年の関東大震災で魚河岸が壊滅的打撃を受けた時まで続きます。食べ物のことですので、早急に手を打たなければならず、臨時の魚河岸としてはじめは芝浦に、後に、築地の海軍研究所跡地に移り現在にいたるのです。
 もちろん市場の中心は魚河岸でしたが、地名として残った米河岸、芝河岸、鹽河岸、鰹河岸、団扇河岸、材木河岸、花河岸、藍物河岸などをみても分かるように、水路と人手と資金を求めて、あらゆる産物がこの地に集まってきたのです。東京中の繁栄が一カ所に集まるのですから、今の繁華街からでは想像もつかないほどの賑わいだったのでしょう。明治座の三田政吉会長が、次のように当時の日本橋を回想しています。
「明治から大正にかけて大きなことは魚市場ですね。昔は幕府がお魚を漁師にとらせて将軍に献上したあと、下々にも魚を食べさせろってんで魚市場ができた。それが明治になって初めて魚の取引ができるようになって盛んになった。私の子供時分で覚えているのはね、駿河銀行から三越さんの前の木屋という刃物屋から江戸橋までの一画、二万坪くらいあったかな、錦絵にもあるようにたいへん繁昌していました。子供の時に連れて行かれて、話もできない雑踏で両側に店がずらっと並んでいて、これが市場かと驚いたのを覚えています。魚を売る店だけじゃない。陶器、塗り物、練り製品、それに浅草の合羽橋と同じ料理に使う道具といろんな店が集まっていました」

 三田会長の幼少時代、おそらく明治末から大正初めにかけての実体験に基づいた、非常に貴重なお話です。
 日本橋は言わずと知れた五街道の中心です。そして江戸八百八町に張りめぐされた水路の中心でもあったのです。道路と水路の中心、今で言うターミナルポイントなのですから、人と物と金が集まるのは当然です。榮太樓總本鋪の相談役を務めていらっしゃる細田安兵衛さんが次のように日本橋魚河岸を語ってくれました。
「江戸以来の日本橋の繁栄は、やはり魚河岸によって支えられていたことが非常に大きかったのです。魚河岸によって経済、文化の中心となり、情報の発信地でもあったのです。船が魚河岸に集まってくる、参勤交代の大名行列が日本橋を通る、その意味で情報の中心だったとも言えるでしょう。鹽河岸や青物町があり、魚だけでなく江戸庶民の台所を支えていました。私の店もそうですが、我々江戸に生まれた商人は、何らかの形で魚河岸に支えられて発展してきたのです。榮太樓總本鋪も、魚河岸で金鍔を売ったのがはじまりです。京のお菓子のように雅や詫び寂びを求めるものではなく、労働者のエネルギーを補充する目的ですが、そこには江戸のお菓子の良さがあったのです」

 細田安兵衛さんのお話しのように、日本橋魚河岸は日本橋地区を発展させたのです。江戸の中心に魚河岸があったのか、魚河岸があったから江戸の中心になったのか。それは何とも言えません。しかし、魚河岸は今や日本橋にはありません。天正時代から大正時代まで日本橋に空前の繁栄をもたらした魚河岸、そして今、「かつての魚河岸に代わる求心力のある何か」が必要になってきます。それを探る日本橋地区の皆さんの努力は、日々続いています。


コンクリートにかためられた河岸も、かつては魚河岸の賑わいにつつまれていた。
 
 

2001年5月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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