簡単に中央区の花街の特徴を挙げておきます。町名の後の住所は昭和元年の花柳年鑑による芸妓組合のものですが、古い住所からかえって当事の町の様子がうかがえるかもしれません。
一.新橋(京橋区竹川町8) 江戸末期にあった木挽町の芝居小屋を取り巻く芝居茶屋、遊船宿、料亭の需要に応じて町芸者が起こったのがはじまりとされます。明治維新後、官庁街が近くにできたことと明治5年に新橋と横浜間に鉄道ができたことに後押しされて、東京で一番の花街となりました。ちなみに中央区の新橋芸者は金春芸者と呼ばれ、港(芝)区の烏森芸者とは組合が違っていました。
弐.柳橋(日本橋区吉川町10) 吉原にいく水上交通の要所であったために、自然と華やかさを持った土地柄となったようです。江戸末期に深川仲町の辰巳芸者が、天保の改革で移住して来てできた花街と言われています。それ以前にも町芸者の多い土地として知られ、明治維新までは江戸有数の花街でした。
参.葭町(日本橋区住吉町22) 人形町界隈は江戸初期の吉原です。明暦の大火で吉原が移った後、不浄を払う意味だったのでしょうか、旧遊廓は浪花町、住吉町、新和泉町、高砂町と目出たい名前に変えられました。吉原移転後もこの地に残る人々は多く、自然と町芸者を生みました。ここは商工業の中心でもあり、町の発展と共に徐々に発達していきました。昭和26年より紅会という舞踊会も行われ、現在でも組合の残る数少ない現役の花街の一つです。
四.新富町(日本橋区新富町2ー2)新富町の花街は明治政府の作った遊廓新島原が母体です。遊廓はすぐに廃止になりましたが、その後、芝居の森田座が移って来たので、芝居茶屋の需要から新富町の芸者は増えていきました。芝居小屋の近くゆえに櫓下芸者と呼ばれました。
五.日本橋(日本橋区数寄屋町10)江戸の商工業の中心です。元大工町、桧物町、石町、中橋あたりの芸妓を総称して日本橋芸者と言いますが、宴席の性格上、芸能に優れた名妓が多く、一流の花街とされました。ただ、オフィス街としての需要が大きくなるにつれ、少しずつ花街としての性格は失われていきました。
六.霊岸島(京橋区富島町9) 深川の岡場所が繁栄した明和のころより、その一画として発展した街です。少ないながらも町芸者が張り切っていました。余談ですが下山事件で知られる国鉄の下山総裁はこの街を贔屓にしていたそうです。
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