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HOME > 特集 > 中央区都市観光編 > 第2回 中央区の花街 その歴史と現在
 

 

 5月28日から31日まで、新橋演舞場にて「第77回東をどり」が開催されます。新橋演舞場は新橋芸妓の教養と技芸の向上を目的とし、大正14年に東をどりを柿落としとして開場しました。中央区銀座に住所がありながら新橋と名付けられたのは、新橋芸妓のための演舞場という意味合いがあったためです。  大正15年度(大正14年刊)の花柳名鑑によると、今の中央区(当時の京橋区、日本橋区)に組合の事務所を置く芸妓屋は、新橋、柳橋、葭町、新富町、日本橋、霊岸島と五つもありました。このように芸妓の事務所が集中している区は他に類がなく、中央区は花柳界の中心でもありました。  東をどりは、京都の都おどりと同規模の催しを東京でも開きたいとの思いで始められました。今回のTC.Net ( Tokyo Chuo Net/東京中央ネット)特集は、東をどりにちなみ、中央区の芸者の歴史をとりあげます。
 なお、第77回東をどりに関しての詳細は以下の通りです。


第77回東をどり 新橋演舞場 
平成13年5月28日より31日まで 第一部午前11時半開演 
第二部午後2時半開演 番組 1 新舌出し三番叟 2 雁のゆくえ 3 お好み春夏秋冬
入場料 S7500円 A7000円 B2500円 C1500円
チケットに関するお問い合わせは
チケットホン松竹 03(5565)6000まで
 
芸者の歴史
 芸事自体は人間の歴史とともにあったのでしょうが、職業として日本史のなかに登場するのは白拍子が元祖とも言われています。白拍子は平安末期から鎌倉時代にかけて、歌い舞った遊女の一群です。平家物語に「そもそも我が朝に、白拍子がはじまりける事は、むかし鳥羽院の御宇に、しまのせんざい・わかのまひとて、これら二人が舞い出したりけるなり」とあります。源義経に愛された静御前や平清盛の愛した祇王と仏御前も白拍子でした。当時の高貴な人々との関わりを考えると、芸事をもって世を送る人々には格式の高さも必要だったのでしょう。それは近代の芸者にも通 じるものがあります。  白拍子の後、遊女の中から歌舞管弦をもってお客の相手をした踊子が近世の芸者のはじまりと言えます。いつから踊子がいたかは、はっきりはしませんが、踊子は江戸時代の寛文年間(1660年ごろ)には、京大阪にいたことは分かっています。それが天和年間(1680年ごろ)には江戸に伝わってきたと言います。江戸では大名や旗本の屋敷に呼ばれて、歌や踊りを披露したようですが、制度としてはまだ確立していませんでした。

 宝暦年間(1760年ごろ)に吉原に扇屋歌扇(おうぎやかせん)という踊子が出たという資料があります。 「よし原女芸者といふもの、扇屋歌扇にはじまれり、歌扇ただ一人なりし、宝暦12年ころなり、その後、おいおいに他の娼家にも茶屋にもできて……」  吉原がすでに明暦の大火によって中央区から現在の台東区に移った後のことで、残念ながら近代の芸者の発祥が中央区とは言えません。ともあれ、この扇屋歌扇より制度としての芸者が始まり、江戸時代中期から幕末にかけて隆盛を極めます。吉原の中で芸者は制度として形作られていきましたが、それに対して廓外の市中でも踊子は増えていきます。これを町芸者と呼び、水上交通 の要所であった柳橋などは町芸者からはじまっています。明治維新後、明治5年10月9日に鑑札制度があらたまり、芸者が政府によって公認され今日にいたりました。

 明治初期の芸者は等級があり、一等が花代1円の新橋、二等が日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋で80銭、三等が烏森、吉原で50銭、四等が深川、神楽坂の30銭、赤坂は五等だったようです。当時の公務員の初任給が20円くらいだったので、日に何席も持てる芸者の収入はかなり良いと言わざるを得ません。この時期でも中央区の新橋、日本橋、葭町、新富町、数寄屋橋は一流といえます。赤坂や牛込(神楽坂)が一流になるのはもう少し後のことです。  柳橋の中心は台東区で、深川の芸者が天保の改革で移って出来たと言われています。その深川の辰巳芸者は葭町の人気芸者・菊弥が移り住んで始まったと言われます。ルーツから考えても、事務所が多く集中している点からも、中央区は花柳界の中心だったのです。ちなみに花柳とは李白の詩から出た言葉で、華やかな遊里を指す言葉です。
 
中央区の花柳街  

 簡単に中央区の花街の特徴を挙げておきます。町名の後の住所は昭和元年の花柳年鑑による芸妓組合のものですが、古い住所からかえって当事の町の様子がうかがえるかもしれません。

一.
新橋(京橋区竹川町8) 江戸末期にあった木挽町の芝居小屋を取り巻く芝居茶屋、遊船宿、料亭の需要に応じて町芸者が起こったのがはじまりとされます。明治維新後、官庁街が近くにできたことと明治5年に新橋と横浜間に鉄道ができたことに後押しされて、東京で一番の花街となりました。ちなみに中央区の新橋芸者は金春芸者と呼ばれ、港(芝)区の烏森芸者とは組合が違っていました。

弐.柳橋(日本橋区吉川町10) 吉原にいく水上交通の要所であったために、自然と華やかさを持った土地柄となったようです。江戸末期に深川仲町の辰巳芸者が、天保の改革で移住して来てできた花街と言われています。それ以前にも町芸者の多い土地として知られ、明治維新までは江戸有数の花街でした。

参.
葭町(日本橋区住吉町22) 人形町界隈は江戸初期の吉原です。明暦の大火で吉原が移った後、不浄を払う意味だったのでしょうか、旧遊廓は浪花町、住吉町、新和泉町、高砂町と目出たい名前に変えられました。吉原移転後もこの地に残る人々は多く、自然と町芸者を生みました。ここは商工業の中心でもあり、町の発展と共に徐々に発達していきました。昭和26年より紅会という舞踊会も行われ、現在でも組合の残る数少ない現役の花街の一つです。

四.新富町(日本橋区新富町2ー2)新富町の花街は明治政府の作った遊廓新島原が母体です。遊廓はすぐに廃止になりましたが、その後、芝居の森田座が移って来たので、芝居茶屋の需要から新富町の芸者は増えていきました。芝居小屋の近くゆえに櫓下芸者と呼ばれました。

 
五.日本橋(日本橋区数寄屋町10)江戸の商工業の中心です。元大工町、桧物町、石町、中橋あたりの芸妓を総称して日本橋芸者と言いますが、宴席の性格上、芸能に優れた名妓が多く、一流の花街とされました。ただ、オフィス街としての需要が大きくなるにつれ、少しずつ花街としての性格は失われていきました。

六.霊岸島(京橋区富島町9) 深川の岡場所が繁栄した明和のころより、その一画として発展した街です。少ないながらも町芸者が張り切っていました。余談ですが下山事件で知られる国鉄の下山総裁はこの街を贔屓にしていたそうです。

明治一代女と中央区の芸者

 花柳界の中心だった中央区は有名な芸者を数多く輩出しています。伊藤博文の愛人でありヨーロッパのアイドルともなったマダム貞奴(葭町)、桂太郎の愛人だったお鯉(新橋)、「日本橋浮名の歌妓」で紹介される悲劇の心中の叶屋歌吉(日本橋)……。その数多くの中で、一番有名な芸者と言えば、やはり花井お梅でしょう。

 小今、続いて小秀を名のり柳橋で芸者生活をスタートさせたお梅は、新橋に移り歌川秀吉の名前で芸者を続けます。ただしお梅を有名にしたのは、新橋での金春芸者時代を終えて浜町に移ってから起こした事件によるものです。これを題材に、「浮いた浮いたと浜町河岸に……」という新橋喜代三の歌った「明治一代女」は大ヒットしました。歌舞伎「月梅薫朧夜」も有名ですし、新派の「明治一代女」は今でも人気の演目です。これらすべては、明治20年6月9日にお梅の起こした箱屋殺しを基にしたものです。気性の激しさはそのまま激しい恋につながり、ついには殺人まで犯してしまうのですが、お梅は美貌の名妓として知られ、事件は当時、様々に喧伝されました。

 新橋での芸者時代を終えたお梅は、明治20年5月10日に浜町2丁目12番地の浜町河岸に酔月という待合を開業しました。日本画家・鏑木清方(かぶらぎ・きよかた)の随筆「濱町にいたころ」に「日本橋はいいところばかり、いつかは住んで見たいと思つた願ひのかなつたのは明治40年」とあります。そして念願かなって住んだのが奇しくもお梅の酔月とまったく同じ住所でした。清方が住んだ家とお梅の酔月は全く同じという訳ではなく、どうも向かい合わせであったようです。お梅の事件は世間を騒がせ、まだ、瓦版的な要素を残す新聞でも取り上げられました。やまと新聞には月岡芳年(つきおか・よしとし)がお梅を描いた浮世絵が残されています。

 鏑木清方の代表作とされるものに「築地明石町」「新富町」「浜町河岸」の三部作があります。近代の美人画の中では最高傑作と言われながら、少なくともここ20年は表に出ていない幻の名画と言われる「築地明石町」は佃島に浮かぶ洋船のマストを背景に、ホテル・メトロポールの柵の傍らにうつむき加減で立つ女性の姿を描いたものです。髪型が洋風でモデルもはっきりとしており、芸者とは言えないようです。「新富町」は芝居小屋の前を通 る丸髷の芸者の姿を描いています。新富座か森田座かは分かりませんが、この芸者は新富町の櫓下芸者の一人でしょう。また「浜町河岸」は関東大震災まで残っていた深川安宅川岸の火の見櫓を背景に、踊りの稽古から帰る町娘を描いたものです。美人画を描く画家として、清方は並々ならぬ 関心をもって、中央区の花柳界を見ていたはずです。

 貞奴が葭町の芸者のままに、伊藤博文に囲われたのは明治20年。浜町でお梅が事件を起こしたのと同年です。ともに芸者として名を上げながらも、たどった道は全くの逆でした。ある意味では芸者の世界での光と影だったのかもしれません。清方は、お梅の激しさと影が美人画にとって必要なものだと考えたのではないでしょうか。明治36年にお梅は特赦により出所し、大評判になりましたが、清方は、あえてその地に住んだのかも知れません。

 今では中央区に事務所を構える芸妓の組合も新橋と芳(葭)町だけとなりました。隅田川の岸はコンクリートで固められ、川を渡る船もカラオケつきの屋形船になってしまいました。往時を忍ぶものは年々減っていきます。しかし、東をどりが77回も続くように、今日も踊りや三味線の稽古に余念のない芸者はたくさんいます。中央区の大川端には江戸の芸者の心意気が続いているように思えます。

 
 

2001年4月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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