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HOME > 特集 > 中央区都市観光編 > 第1回 華&華&華!! 火事と喧嘩と町火消し
 
江戸の町と火消しとは
3月1日から春の火災予防運動がはじまった。この時期は季節風が吹き、火事が拡大しやす時期でもある。かの有名な「八百屋お七」の火付けは3月2日(1682年)とも言われている。明暦の大火(振袖火事)が1月18日(1657年)、目黒行人坂火災が2月29日(1772年)、丙寅の火事が3月4日(1806年)と、年明けからこの季節までに江戸の大火は集中している。  江戸の土地の67%が武家地で、町家は約12%に過ぎなかった。ところが人口比は、ほぼ同じ。享保10(1725)年の資料では、江戸の町の人口密度は68807人/平方キロと超過密社会だった。そこにはびっしりと木造の家が建ち並んでいたのである。そこで火事が起きたら? 江戸庶民にとっては火事は恐るべき災害だった。だから火事に雄々しく立ち向かう町火消しを信頼し、尊敬し、賞賛し、憧れたのである。  火事に火消しは付き物だが、もともとは大名の自営消防団である大名火消しと各藩の武家地を守る定火消しの方が先輩。しかし江戸の広大な地域の火事をそれらの組織でカバーすることは不可能だった。町家の火事は、火事のある度に町内のものがかり出される制度はあったものの専業的集団の制度はなかった。そこにテレビでお馴染みの江戸南町奉行・大岡越前守忠相が登場する。彼は一つの町に30人の火消しを揃えるように指示し、やがてそれが隅田川以西に「いろは48組」、隅田川以東に「南北中16組」へと発展する。
 
喧嘩と町火消し
 「火事と喧嘩は江戸の華」とうたわれている。喧嘩といっても酔っ払いの肩がぶつかって始めるくだらない喧嘩ではない。また、侍同士の斬り合いでもない。  そもそも火事と喧嘩を分けて考えるべきではなく、華と呼ばれた喧嘩は、火事場の喧嘩、命懸けの消火活動の最中の火消しの喧嘩と考えるべきだろう。前述の成立過程から昔ながらの武家火消しと新興の町火消しは、それぞれに対抗意識をもっていた。火事場の目的は消火と延焼の阻止。その前には武士も町人もなく、同じ立場で消火活動に当たらなければならない。町火消しは命を張って消火をすることを誇りにしていた。そして、その誇りは町火消したちの心の中に潜在する封建社会への反発にも同調するものがあった。だから些細なことで意地を見せたりもしたのだろう。その意地と喧嘩は、やはり封建社会に反発する江戸庶民の心をも代弁していた。  江戸の消火活動は次第に町火消し中心になり、喧嘩も町火消し同士になったりもするが、その心意気を江戸庶民は華として讃えたのである。  以下は歴史に残る喧嘩の数々。享保3(1718)年の加賀鳶と定火消しの喧嘩、文化2(1792)年の「め組」の喧嘩、文政7(1809)年の八、九、十の喧嘩、弘化2(1845)年の「を組」と有馬家の喧嘩などだが、歌舞伎で知られるのが「め組の喧嘩」。2月の歌舞伎座では坂東三津五郎襲名披露興行で上演されている。規模の大きさでは「八、九、十の喧嘩」だったらしい。それについては、今回のインタビューにご登場いただいた鹿島靖幸さんのお話にも出てくる。
 
今回は江戸消防記念會会長 日本橋消防団副団長 鹿島靖幸様にお話をうかがいました。

鹿島会長は、江戸消防記念會の会長になられたのはいつからですか?
平成8年6月から2期やっていますですので、5年くらいになるでしょうか。
やはり火消しは今でも、鳶の方が多いのですか?
 火消しの世界は今でも100%、鳶ですね。町火消しは享保3(1718)年に、時の南町奉行、大岡越前守忠相によって設立されます。大岡越前さんが「その町の火事はその町で守れ」という御触れを出したのがキッカケです。名主を通 じて「30人出しなさい」ということです。商家の手代、番頭から左官、大工、鳶などいろいろな職業の人々を30人編成で作るのですが、いざ火事の現場に行くと鳶以外の人は邪魔なんです。その中で一番働くのは鳶だと言うので、それならば1業種にしてしまおうということで、鳶だけで編成をすることになりました。それが「いろは48組」の事の起こりなんです。はじめは当時の制約ですから、のぼり旗を立てて町名を書いて、自分の町以外は消しに行ってはいけないということだったのです。それがだんだんと旗本、大名の屋敷の中に入れるようになり、あるいは江戸城の中に入れるようになっていったのです。  そして町火消しは町奉行の管轄に入り、大岡越前が赤坂御門、牛込御門、小石川御門と江戸の地図に市引き線というものを引いて指示した旧市街を、「いろは48組」で守ることになりました。本所、深川には南北中の16組。全部で64本の纏(まとい)を江戸の町に置くわけです。  文化文政の頃(1804〜29年)から幕末にかけて、町火消しは勢力を増して行きます。幕末には1万359人の町火消しがいました。
すると幕府公認の火消しということになりますので、纏は十手のように幕府から貸与されるのですか?
纏はそれぞれの町で作るものです。纏の起源は戦国時代に戦場において騎馬武者の傍らに置かれた馬印です。それが組纏となり町火消し64組の象徴となるのです。消し口の風下に纏を立てれば、そこから下へは決して燃えさせないという気持ちで行きます。火事が強くなれば纏も下げていかなければなりません。火消し同心や火消し与力という役人や町名主がついた上で、組頭(くみがしら)が指示を出すので、勝手に好きなところへ行って消せたものではないようです。
町火消しというと粋な半天の姿が印象的です。デザインが様々ですが、その意味を教えてください
 現在の江戸消防記念會の半天は、腰の白筋で区を表し、襟に組名と役職を記すようになっています。さらに肩の赤筋で指導者の階級を示し、襟の文字で中級幹部まで識別 できます。私の半天は腰の白筋が一本です。これは第1区と言って、神田、日本橋、京橋、銀座あたりまでの大通 り筋になります。第2区になると芝から品川にかけてで、腰の筋でその火消しが所属する方面 が分かるのです。肩に入っている赤線で組頭か小頭(こがしら)かがすぐに分かります。襟でもって、誰それがすぐに分かるのです。背中が番組で一番から十番までふってあります。江戸時代はこれが「いろは」だったのです。ですから腰の白筋が一本で背中が一番ならば、すぐに神田だと分かるのです。
 江戸時代の半天も残っています。私も「ろ組」の半天を着ることがあります。ただしそれはお祭りとかで、江戸消防記念會の寄り合いなどでは、今の半天を着なければいけないという形になっています。半天の下に着る下半天は、「ろ組」だろうと「は組」だろうと、自分のところの半天を着ることができます。
町火消しは江戸の華とうたわれた喧嘩の中心だったと聞きますが、そのあたりをお教えください
 「火事、喧嘩、伊勢屋、稲荷に犬の糞」と七五調で江戸名物を並べた言葉があります。「火事と喧嘩は江戸の華、そのまた火消しは江戸の華」とも言います。消し口(けしぐち)争いなどで、火事場というのはどうしても喧嘩の起こりやすいところなんですね。「め組の喧嘩」は歌舞伎の神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)という狂言で有名ですし、浅草の新門辰五郎も喧嘩の中で名を上げていきました。  その中でも一番大きいのは「八、九、十の喧嘩」です。八番組(「ほ」「加」「わ」「た」の各組999人)、九番組(「れ」「そ」「つ」「ね」の各組596人)、十番組(「と」「ち」「り」「ぬ 」「る」「を」の各組931人)が一塊になって、神田の一番組(「い」「よ」「は」「万」の各組2246人)と喧嘩をし、これが文化6(1809)年から文政7(1824)年まで15年続きました。その間にしょっちゅういざこざがあったのですが、ついに霊岸島の火事でぶつかったのです。一番組は神田ですから大通 りから入ってきて、浅草の八、九、十番組は蔵前の方から入ってきて大乱闘になりました。江戸の町火消しが1万数千人いたのですが、ほとんどが双方の組に関わっているのですから、おそらく5千〜6千人は喧嘩の現場にいたでしょう。火事がおさまっても喧嘩は続いていたと言います。さすがに江戸町奉行所もこれを重く見て、責任者は遠島、追放、手鎖(てぐさり)等の罰をうけました。このような町火消し同士の喧嘩、大名火消しと定火消しとの喧嘩などいろいろな形の喧嘩が火事場ではあったようです。明治になったからといって、すぐに無くなるものではありませんでした。
それは自分達がこの火事を消すのだという主導権争いだったのですか?
 消し口を取るということがあります。そこに命懸けの消火活動というものが入ってくるのです。だから、いちがいに否定できない一面 もあるのでしょうね。一人の纏持ちが纏を立てると、それに不満のほかの纏持ちとの喧嘩になったり、邪魔な者を突き落としたりしましてね。  纏は重いし、火事場では特有の風が吹きますので、そう簡単に持てるものでもないのです。火事場で纏を立てるというのは、力の強い屈強な若者がやらなければなりません。火にはあぶられますし、猫頭巾から目だけを出して、そこに水をかけて纏持ちを守りながら、消火活動をするのですから、そこに足をかけたりしたら喧嘩にはなりますよね。
火消しの頭(かしら)は世襲制なのですか?
 火消しは町内お抱えと言う形を取っています。屋号を残すために養子をとる場合もありますので、世襲制ではありませんが、世襲制に近いところはあります。
町火消しの伝統が、近代になってどう受け継がれていったのかお教えください
 明治になって町火消しは、江戸町奉行所に代わって設けられた市政裁判所の管轄に一時的に入り、その後、市部消防組として明治の警視庁の配属になります。その時に、約1万人いた火消しは約2500人になりました。徳川慶喜に忠誠を尽くした浅草の新門辰五郎の「を組」などは、彰義隊と一緒に上野の山に籠って纏を立てたので、廃止させられて別 の組に変わってしまいました。  「三河武士の心意気は残っていない。江戸では町火消しだけが生死に関わらず火の中に飛び込んでいく勇気を持ち、死ぬ ことを恐れていない」と西郷隆盛が言ったと伝えられています。西郷隆盛にしてみれば、そのような命知らずが1万人以上も江戸には残っているのですから、ある種の恐さもあったでしょう。そのためうまく使わなければいけないと明治政府は考えたと思います。それもあって火消しを消防組として残したのでしょう。  大火というのは江戸が東京に変わったからといって、すぐに無くなるわけではありません。明治30年代までは、何回か大きな火事があり、死傷者もたくさん出ました。明治31年に東京市内に消火栓が設置され、水の出がきちんとしてきますと、ある程度火を止めることができるようになりました。大正時代に消防ポンプ自動車が採用になると、大火というものは少なくなりました。
すると破壊消防が、その頃から、消火消防に変わっていくのですね
 そうです。それに伴い火を消すというのは、消防署の職員の仕事になってきますが、その配下に市部消防組として働いていたのは江戸の火消しの末裔である鳶の人たちだったんです。日華事変や満州事変の時代になると、防火だけではなくて防空なども含めて、昭和7年に防護団というものができました。片方に消防組があり片方で防護団と二つの組織が並立し、しかも構成員は同じという不合理な状況が生じました。そこで内務省は木戸幸一が内務大臣の昭和14年に警防団令を公布して、二つの組織を警防団に吸収合併させました。そこで消防組が廃止になり、消防に携わるのが鳶だけでは無くなりました。昭和20年の終戦まで警防団は続き、戦後の昭和22年に消防団令が公布されて現在の消防団の形が整いました。
鹿島さんの素顔として、火消しを離れたお仕事をお教えください
 学校を出てからは、三越の営繕課に勤めました。その後、父の後を継いで解体工事などの鳶の仕事をしています。家一軒を建てるのに、基礎工事から、極端に言えば完成後の掃除までが鳶の仕事です。穴を掘り杭やコンクリートを打って鉄筋を組んだり足場を掛けたりするのも全部鳶ですから、高層ビルになっても鳶の仕事の幅の広さは変わらないのです。
鹿島組の歴史はどうなのですか?
 法人にしたのは私です。私の家は代々柳屋さんのお抱え鳶でした。柳屋は浜松から移住して来て間口10間奥行き20間をのこの地を徳川家康より拝領したわけです。元禄(1688〜1704年)になりますと、町奉行所からこの地に住んでいる正統性を質してきました。その時は明暦の大火で必要な書類が焼失しています。そこで当時の柳屋の当主が言い伝えを書類にまとめ、奉行所に登録し、登録後、この土地が自分の地所だとお披露目をするのです。その折にお礼金を配った記録に抱え鳶という記述があります。ですから当時から鳶として抱えられていたと思われます。
すると江戸の元禄の時代から延々と続いているのですね
 抱え鳶という記述だけで、名前が載っていないので、正確には分かりませんが、おそらく、そうだと思われます。
中央区との関係で思い出深いことはありますか?
 ある時期、道路使用の許可が下りなくて、お神輿が担げなくなった時がありました。そのため、祭りも衰退しました。その後、通 り一丁目の細田安兵衛会長のところで神輿をつくろうという気運が出ました。細田会長が音頭を取ってくださり、通 り一丁目で2尺8寸くらいの大きさの神輿をつくったことがあります。通 り一丁目は企業が多いので7軒くらいしか住んでいません。その企業全体の協力を取り付けて、神輿の上棟式まで1年近く携わって、町会みんなでやりとげました。華やかな時代だったなという思い出があります。そのような地元の町会との関係の大切さがありますね。
若い人へのメッセージはございますか?
 我々の時代からすれば、よくやっているなと思いますから、特にはないですね。  火消しの世界は非常に折り目の正しい世界です。寄り合いに行っても、席なんかきちんと決まっていますし、友達同士でも上下は守ります。そのような立場から見ますと、若い人にも動作や口のきき方などにしても、折り目正しく、きちんとしてもらいたいという気持ちはあります。 今日はお忙しいところ、ありがとうございました。

プロフィール    
昭和8年 4月26日 中央区日本橋に生まれる
昭和24年 3月31日 都立日本橋中学校卒業
昭和24年 4月1日 (株)三越本店に入社、営繕課に勤務する
昭和28年 11月1日 家業を継ぎ鳶工事業に従事する
昭和29年 5月4日 日本橋消防団第6分団に入団する
昭和32年 7月10日 日本橋消防団第6分団班長となる
昭和36年 1月9日 (社)江戸消防記念會第一区小頭となる
  4月13日 (有)鹿島組代表取締役に就任する
昭和41年 3月7日 (社)江戸消防記念會第一区副組頭となる
昭和42年 6月6日 (社)江戸消防記念會第一区組頭となる
昭和44年 9月25日 (株)鹿島組代表取締役に就任する
昭和54年 10月6日 (社)江戸消防記念會第一区幹事となる
昭和57年 5月6日 (社)江戸消防記念會第一区副総代となる
昭和59年 2月9日 日本橋消防団第6分団部長となる
  6月1日 日本橋消防団第6分団副分団長となる
  8月6日 (社)江戸消防記念會第一区総代、(社)江戸消防記念會常任幹事となる
  10月25日 地域防災への寄与に対して東京都中央区長より表彰状を授与される
  10月25日 江戸消防記念會三十周年記念誌編集委員会委員長として「江戸消防」を編集発行する
平成元年 5月27日 (社)日本鳶工業連合会参与となる
  7月11日 建設事業の振興に寄与に対して建設大臣賞を受賞する
平成2年 4月6日 (社)江戸消防記念會副理事長に就任する
  10月3日 黄綬褒章を受章する
平成5年   消防、防火、防災への貢献により東京都知事賞を受賞する
平成7年   消防、防火、防災への貢献により東京消防庁総監賞を受賞する
平成8年 6月 (社)江戸消防記念會会長に就任する
    消防、防火、防災への貢献により消防庁長官賞を受賞する
平成10年 3月 日本橋消防団副団長となる

 
今も生きる火消しの心構え
今回うかがった話の中で、江戸消防記念會が揃って参拝をする年中行事がいくつかあった。以下、列挙すると目黒・祐天寺本尊及び木遣塚(4月6日)、靖国神社参拝(4月23日)、浅草寺の消防殉職者の慰霊祭(5月25日)、墨田区東向島の三囲神社の木遣塚(6月6日)、川崎大師・平間寺の消防記念碑の法要(6月22日)、成田山新勝寺への参拝(10月6日)、明治神宮参拝(11月3日)などである。江戸火消しの神社仏閣への参拝は、信仰ももちろんだが、そもそもは彼等が寺社の修復工事を請け負ったことからはじまる。現代とは違い人里離れた寺社では、一部破損したとて、おいそれと人手があるわけではない。だから、江戸の火消し(鳶)にこの仕事を依頼した。10月6日の江戸消防記念會の成田山新勝寺への参拝は、江戸時代の本堂移設工事を江戸の頭が請け負ったことに始まる。記録では二番組の頭がそれにあたっている。「せ」「も」「め」「す」「百」「千」の各組とともに、今回、お話をうかがった江戸消防記念會会長の鹿島靖幸さんのご先祖である「ろ組」も参加している。  これらの行事は、全て春と秋に集中している理由がある。火消しのその昔は「詰め」といって、毎年11月11日から5月10日までの火災が最も発生しやすい時期に、毎夜交代で町中の消火活動、防火活動に従事していた。そして、この期間中は、火消しは江戸の町から一歩たりとも外に出ることを自ら禁じていたと言う。「詰め」は戦前までは残っていたし、「詰め」の前後は江戸時代同様、神社仏閣の参拝や湯治に出かけていたと言う。厳密に言えば時期は若干ずれるが、江戸消防記念會の行事が、春秋に集中するのは「詰め」の心構えを残しているとも言えそうだ。  春が近い。暖かい南風が強く吹く季節だ。同時に冬の間、お世話になった暖房機具に対しても、油断が生じる季節でもある。3月初めに火災予防週間があり、「詰め」の期間が5月初旬まであったように、火事のピークが去った訳では無い。  皆さん、火事には十分注意をしましょう!!
 
 

2001年3月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
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