■月島・佃の歴史 |
月島は明治25(1892)年、隅田川河口に大東京港を建設する計画のもとに造られた埋め立て地の第1号です。相生橋や勝鬨橋の開通で、工業地帯として発展し、昭和初期頃は軍需産業で栄え、その後は石川島造船所(現・石川島播磨重工)の社員住宅を中心に住宅地域として発展しました。高度成長期以後は工場の転出もあり、更に住宅地域としての発展を遂げ、最近では高層マンション進出等の大規模な都市開発が目立っています。
関東大震災、太平洋戦争の被害をまぬがれたため、江戸情緒豊な下町独特の景観が残り、旧きよき人情もまた息づいています。月島の中心を貫く西仲通商店街は、所狭しと建ち並ぶ「もんじゃ焼き」の店で活気づき、全国的な注目を集めています。
一方佃は、隅田川河口にできた自然の寄洲でした。正保元(1644)年に、徳川家康に従って江戸へ下った摂津国西成郡佃村(現・大阪府西淀川区佃町)の漁師たちが隅田川河口の干潟100間(約180メートル)四方の地を拝領し、埋め立ててここに住みついたものです。佃島の漁師は、江戸近海の広大な漁業権を優先的に与えられ、毎年11月から3月まで佃沖で行われる、将軍献上の白魚漁は、江戸の風物詩でもありました。高度成長期には石川島播磨重工業を中心として賑わいを見せましたが、その後工業は移転し、その跡地には高層住宅の建設が続々進んでいます。また、佃煮の発祥地でもあり今も三軒の佃屋が佃島渡戦場跡付近に残っています。月島と同様、震災や空襲をまぬがれ、戦前からの街並みが今もなお残り、歴史深い建造物や文化は佃の歴史を今に伝えています。 |
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