-築地の歴史- |
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魚河岸発祥の記念碑
(中央区日本橋) |
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魚河岸の名で親しまれる築地中央卸売市場は、日本橋からの昭和10年の開設以来60数年もの間、巨大都市東京の台所として私たちの食生活を支え続けています。
この築地に現在の中央卸売市場が開設されるまでは、その拠点は日本橋にありました。江戸時代初期、徳川幕府から江戸湾内の漁業を許された漁師達が、幕府に納めた魚の残りを、日本橋で売るようになったのが、その始まりだとされています。今も、日本橋のたもとに「魚市場記念碑」が建てられ、その界隈が魚市場発祥の地であったことが刻まれています。
今のように公正な取引ではないものの独自の流通が始まり、明治時代になると問屋や仲買人が組合を形成するまでになりました。やがて都市人口の増加に伴い、取扱量や業者が増加し、取引の乱れや不衛生な状況が発生してくると、公設の中央卸売市場のニーズは一層高まりました。大正12年3月「東京卸売市場法」の制定で、東京市の下、衛生的でかつ公正な取引による価格と品質の安定が保障された、公設市場がようやく開設されました。が、大正12年9月の関東大震災による被害で、日本橋魚河岸は残念ながら姿を消すことになったのです。これを機に芝浦の仮設市場を経て、昭和10年、築地に広さ22万平方メートルの東京都中央卸売市場が誕生しました。現在のように取引の結果を公表し価格安定を図る、公正な取引が実現されるようになったのです。
昭和16年12月、太平洋戦争勃発から戦後にかけて、しばらくは食糧難の時代が続きましたが、昭和30年代の高度経済成長期を迎え、漁業及び冷凍技術の進歩や、出荷団体の組織化、交通機関の発達等で、市場は再び活気を取り戻しました。更に成長を続け、今では1日平均4000トンの水産や青果を入荷し、およそ30億円の取引が行われる日本最大の魚市場に発展しました。
この築地市場の場内は、主に水産物部と青果部の仲卸業者売場、そしてこれらの売場と日本橋時代から共に歴史を歩んできた市場関連事業者営業所、通称「魚がし横丁」の3箇所から成っています。一昨年10月、一般の人たちに気軽に訪れてもらおうと「魚がし横丁」のニックネームを得たこの場内商店街は、和・洋食、中華、寿司、喫茶等の飲食店だけでも39店舗、乾物、土産物、料理器具等の物販店等合わせて140店舗が集まり、中卸業者売場関係の人や一般の人たちに、毎日新鮮な食材や関連商品を提供しています。 |
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