“魚を食べられなかった日本人”
「・・・・・・豊漁に際すれば漁獲物の処理に苦しみ魚介を肥料にし、或いは放棄する。また鮮魚を他地方に搬出することを得ざるため、全く漁獲をなさざる地方もある。これは運搬と貯蔵の設備が極めて不完全なるためである。欧米各国ではつとに氷凍法の原理を応用し、その興隆を以って水産業隆盛の一因をなせり・・・・・・」
これは明治36年(1903)、大阪天王寺にて開催された第5回内国勧業博覧会に冷蔵庫を出品した大日本水産会が、同社会報(221号)に寄せた冷蔵庫の民設を奨励すべしとの論説の部分です。
四方を海に囲まれ、豊かな水産資源に恵まれた水産国日本は、古来よりさぞ豊富な魚介類を食してきたことだろう、と誰しも考えがちでございますが、事実はそのまったく逆。私たちの祖先は魚を十分に食べてはまいりませんでした。食べたくとも食べられない。思う存分魚を食べてみたい、というのが日本人の長年の願いであったのです。
それというのもすべて冷蔵と輸送の技術が発達していなかったことによります。獲れるも獲れぬも自然任せ。かりに豊漁であってもそれを貯蔵し輸送する手段を持たない時代には目の前で痛んでいく魚を肥料にしたり破棄すらしました。そんなことから工夫を重ね、煮る・焼く・干す・蒸す・発酵・燻すなど、さまざまな保存法が生まれ、日本の食文化を深化させたという側面はあります。しかし、身近に泳いでいる魚すら満足に食せないという状況は私たちの祖先を長きにわたり悩ませてまいりました。
それが明治の半ばになって事情が変わります。製氷技術の進歩によって氷が実用化。魚の鮮度保持が可能となってきたのですね。日本に先立ちすでに欧米諸国では氷凍による水産流通に活路を見出しつつありました。前述の大日本水産会の論説はまさにその時期にあたり、水産業界の勃興にとっての氷の重要性を説いたものであります。当時、製氷産業はまさに最先端のベンチャービジネスでもあったわけですが、実はこれに早くから目をつけ諸外国に打ち勝った、製氷業、ひいては日本の水産業の立役者とも言える日本人がおりました。
“竜紋氷降誕せり”
時さかのぼること明治2年(1869)5月18日、場所は北のさいはて函館の地。函館五稜郭を本拠とする旧幕府軍による新政権に対し、明治新政府の総攻撃は苛烈を極め、ついにこの日、旧幕府軍は降伏開城を余儀なくされます。
「ああ、五稜郭が陥ちていく・・・・・・」
噴煙たちこめる函館の町に落城を見つめる悲痛な男の表情がありました。
かれの名を中村嘉兵衛。我が国において誰よりも早く氷の重要性に着目し、後の製氷産業の礎を築いたという、その人でありました。
嘉兵衛は43歳のときに幕末の新興地、横浜に出て外国人向けの貿易を生業といたしますが、その際に当地に在留しておりました米国医師ヘボン博士からこんな話をききます。
「病人には氷が必要だが日本ではそれを使わないので多くが死ぬ。氷は将来必ず需要が増えるでしょう。」
この言葉に強く感銘を受けた嘉兵衛は、自らが氷事業を勃興しようと心いたしました。さっそくかれは富士山から天然氷を運んで横浜の人びとに提供を試みます。そこで切り出した氷を馬に乗せ東海道を急がせました。しかし富士大宮より運び出した三尺の氷の固まりは、平塚、藤沢と進むうちわずか数寸にまで縮小し、横浜に近づく頃には馬の背で解けて流れてしまったといいます。これでは事業として成り立たない。ということで次に嘉兵衛は舟運の利用を思いつきました。当時、東北地方の海産物が宮古や石巻から帆船でさかんに送られてくる。これに氷を乗せられないかと考えたのです。行動も機敏に東北へと出向くと岩手県鍬ヶ崎にうってつけの採氷地を見つけます。そして人を雇い採氷・貯蔵を急がせまして、今度は土地の廻船問屋と交渉に入りました。ところが、「そんなのダメだべ。氷なんざあ廻船の途中で解けちまうべえよ」と引き受けてもらえません。どこを当たってもこんな調子で、結局切り出した氷はまたしても解けてしまいました。
しかし偉い人です。二度の失敗にも嘉兵衛まったくめげません。行きがけの駄賃だとばかりにさらに北上を続け、蝦夷地は函館にたどりつきます。そびえたつは難攻不落の五稜郭、その城壕1900間に最良の氷を発見いたしました。喜び勇んだ嘉兵衛は大胆にも函館新政権総裁である榎本武揚に謁見、すぐさま採氷の許可を取りつけてしまいます。そして外国船に採氷を依頼し、これで準備万端、さあ事業開始と張り切ったところに函館戦争勃発と榎本新政権崩壊。あまりのショックに嘉兵衛は呆然となりました。
しかし幸いなことに嘉兵衛の事業は明治新政府のもとでも認められ、北海道開拓使黒田清隆の許可により五稜郭における採氷権を取るとともに、東亰永代橋際に貯蔵倉庫を借り受け、これにより市中に氷販売を開始いたしました。これが氷を営業とした最初であり、その後嘉兵衛は深川越前堀、花房町、京橋木挽町などにも倉庫をつくり、これを統合する中川組を設立、事業拡大を図ります。その頃より「ボストン氷」など外国からより安価な氷の輸入も始まりますが、嘉兵衛の氷はその品質の高さから競争相手を寄せつけることはありませんでした。明治14年(1881)、上野で開催された第2回内国勧業博覧会において中川組の氷は優秀の賞牌を獲得。そこに浮き彫りにされた竜の紋から、以後「竜紋氷」としてその名をとどろかせることになります。
“魚に氷はいけねえよ”
長年、五稜郭氷の採氷権を一手に握っていた中川組でしたが、明治23年、公入札制度の導入によりその権利を失います。それは大変な痛手ではありましたが、嘉兵衛はまったく動じません。というのもかねてよりかれは最早天然氷の時代は終わった、と考えていたからです。「これからは機械による製氷が主流となる」30年あまりも続けてきた採氷事業をさっさと引き揚げると、かれは東京本所にイギリス製50トン製氷機をもつ工場を建設。新時代の製氷産業が産声を上げたのでした。ところがこの事業、当初は鳴かず飛ばずに終わります。その理由は「機械の氷は魚には良くない」という奇妙な迷信によるものでした。
日本橋魚河岸では魚に氷を使うのはご法度という暗黙の了解がありました。魚というものは籠に入れて一晩夜風にあてて冷やし、翌日売り出すのが一番なのだというのが常識としてまかり通っていたのですからおかしなものです。魚河岸ばかりでなく、得意先の料理屋ですら、氷詰の魚はダメだと断る始末。
そんなことから魚河岸では明治期を通じて製氷業は普及しませんでした。帝国冷蔵庫というのが明治30年代にできますが、軽井沢あたりから天然氷を汽車で運んだものを切り売りして、問屋もそれをこっそりと使うのが関の山。ましてや機械製氷などもってのほかというわけです。
何と大正の御世まで、魚河岸では氷詰の魚が大ぴらにまかり通ることはなかったといいますが、やがて頭の固い魚屋連中も鮮度低下と衛生問題を無視するわけにもいかなくなります。ことに大正11年(1922)、コレラの大流行により江戸開府以来一日も閉めたことのなかった魚河岸が1ヶ月にわたり休業を余儀なくされたことによって、魚の氷蔵は不可欠との認識が浸透し、翌年の関東大震災後、築地に移転し、中央卸売市場としてあらたなスタートにあたって市場内に製氷設備が備えられたのはいうまでもありません。
(次回に続く)
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