“ザクザク……”
鮭は、中世の頃までは利根川をさかのぼってきたそうで、古くから食べられておりました。「庭訓往来」という室町時代の教科書には、奥州の鮭が美味だけど高価いよ〜ん、などとありまして、って本当は読んだことないのですが、ものの本にそう書いてありました。
江戸時代になっても、やはり珍しい魚に変わりなく、ある日城中に出仕してきた大名たちが持参の弁当を食べておりますと、毛利秀元がオカズに鮭の切り身を入れてまいりましたので、みんなびっくりしました。近くにいた儒者の林羅山などは「わあ、いいなあ、秀元ちゃん! ボクちゃんにもちょっと食べさしてぇ!」
と迫って無理矢理オカズを奪い取りました……あ、また見てきたようなことを言ってしまいましたね。これも、ものの本にそう書いてあったのですがね。
“サラサラ……”
寛政11年(1799)に幕府が東蝦夷を直轄地にいたしますと、東廻航路の延長によって北海道の産物が江戸に入ってくることになりました。幕府は北方貿易の窓口として深川こんにゃく島に会所を設けまして、ようやく鰊、鱈などと共に鮭が流通されるようになりました。が、せっかく貿易航路を開いたのも束の間、難破する船が多く、こりゃ採算が取れんわい、ということで、文化9年(1812)わずか14年で潰れてしまったのでございます。
この頃の江戸時代の風俗を描いた「守貞漫稿」には、数本の鮭を担った「塩鮭売り」の行商が紹介されておりますが、あまり一般的ではなかったようです。
“ザクザク……”
鮭が本格的に出回り、人々が口にするようになるのは幕末近くになってのことでございます。江戸時代初期に関西地方の干鰯の需要が拡大し、それが結果的に関東地方の漁業を開いたということがあるのですが、幕末にも同じようなかたちで北方漁業が開かれます。幕末に九十九里浜の鰯漁業が衰退したため、肥料問屋は蝦夷の干鰊に目をつけて、積極的に航路を拓き、大量の物資が送り込まれることとなったのです。
安政4年(1857)、幕府は函館の十八問屋に物産の専売を許可し、鮭の安定供給がはかられることとなりまして、ようやく鮭が庶民の食卓にも上がるということになったのでございますな。その後、明治になるとこの十八問屋は魚河岸のお隣り四日市市場に合併されまして、北洋物を豊富に扱っていくこととなります。
“ズズズズ…”
いや、お茶漬けを食べた後の茶碗にお茶を入れて飲むのも乙なものでございます。
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