“商売もケンカ腰
”
「なんのその日に千両は朝のうち」と言われ、朝だけで千両もの金が動くといわれた日本橋魚河岸。そこではものすごいスピードで売買が行われました。何しろあつかうものは鮮魚ですから、手早さが勝負というわけです。そんなことから魚河岸の言葉というのは、たいそうぞんざいで乱暴でした。まるでケンカでも吹っかけているような勢いでまくしたてます。
「おい、その鯛(テエ)と鰈(カレイ)はいくらだ」
「三枚で口明けだ。安くまけて四貫だ、ナニ、三貫にしろと、何を寝惚けてゐやがるんだ、今日は鉄の草鞋(わらんじ)をはいて河岸中探してもありやしねえ、いやなら、よしねえ、三貫五百だと、エゝまけといてやれ、持っていきねえ、ナニ、この鰹(カツオ)か、安くして三百五十よ、ゲタメに負けろと、オイ、顔を洗って出直して来ねえ、何だと、目が赤くなってゐる、と、馬鹿も休み休み言ひねえ、今しがたまでハネクリかへってゐたのだ、人間だってこの東風(こち)ぢゃあ、のぼせて目も赤くならあ、ヤイヤイ、気の短けえやつだ、エゝ負けてやれ、呉れてやれ」
こんなやりとりが魚河岸流の商いで、客の方もそれを分かっていて、乱暴な言い合いはするものの別段ケンカにもならずにうまくかけ合いをしたといいます。
“ポカリで始まる朝の行事”
魚河岸では狭い路地をたくさんの人が行き交いましたから、その混雑といったら芋を洗うようだったといいます。だから毎朝あちこちでケンカが絶えませんでした。
「ア、痛い痛い、お前さん、私の足をなぜ踏みなすった」
「何だ、足を踏んだ、てめえが俺の足の下へてめえの足をもくずり込みやあがったんだ、この唐変木め」
などといってポカリと頭をなぐる。
「おめえ、おらが足を踏んでおいて、頭をどやすとは乱暴でねえか」
「何をぬかしやがる。踏み殺して仕舞ふぞ」
いつのまにか周囲には野次馬がとり囲んでいます。
「何だ何だ」
「何、この野郎が俺の足の下へ足を突っ込みやあがって、足を踏んだとぬかしやあがったからなぐりつけたところだ」
「よせやい、こんな田舎者をなぐったって仕方がねえ、なぐるなら骨のあるもんをなぐれ」
「何だ、オツなことを言ふな、骨ツぷしのある者と言ふな、てめえが骨ツぷしがあると言ふのか」
「コイツは面白れえ、さあ俺が相手だ」
「何だ、てめえが相手だと、ありがてえ、今朝から腕がむづむづしてゐたのだ」
といつのまにか野次馬相手に殴り合いがはじまります。そこにさらに別の野次馬がとびこみ、あっちでもこっちでも2組も3組も取っ組み合いがはじまります。最初のケンカの発起人はとっくにどこかへ消えてしまい、関係のない野次馬同士のケンカで終わるという具合で、毎朝毎朝、こんなめちゃくちゃなことが飽きもせず行われていたんです。いってみればレクリエーションというところでしょう。
“魚河岸ケンカ作法”
毎朝の定例行事のようにケンカは行われましたが、そんな小さなものばかりじゃなくて、年にいちどくらいは町内総出の大ゲンカなんてこともありました。日本シリーズみたいなものでしょうか。これがたいそう血沸き肉踊る行事でありました。
記録によりますと、江戸幕末は文久年間。日本橋本材木町にある新場の魚市場へ芝の雑魚場から大挙して攻めてくるという噂が流れました。どこかの問屋が勝手に他人の持浦(産地)を分捕ったとかいうことが原因だそうですが、理由なんかあればなんだっていい。つねづねいまいましく思っていたライバルと一戦交えたくてウズウズしていたわけです。
新場の連中はわっとばかり沸き立ちまして
「おう、テメエら、ここはひとつ俺っちに命をあづけてくんねへ」
アニキ分が言うなり、白襷に後ろ鉢巻の勇み肌の連中が、それぞれ手には得物を持ち。マグロ包丁に竹槍、目つぶし、筋金入りの棒などを用意し、めいめいが庇に上がって「さあ来るもんなら来てみやがれ」とばかり、敵が押し寄せてくるのを今か今かと待ちかまえております。
いっぽう女房連中は炊き出しに身支度の手伝いと、かいがいしく働きます。「お前さん、芝ザコなんぞに上手取られるんじゃないよ」てなことでハッパかけてますね。
この噂が江戸市中にぱぁっと広まると、物見高い江戸っ子たちが大挙してやってきます。周囲をぐるんに囲んでの、木戸銭なしのほんものの芝居見物と洒落こみまして。屋台店は出る。かわら版売りは出る。一日の行楽としては最高の舞台となります。
「サーどっちが勝つかねえ!」
「まあ、ねばり腰のザコバ、勢いのシンバってえとこでやんしょう!」
「どっちみち血を見なけりゃ済まねえ続柄だねぇ。こりゃあ楽しみだぁ」
結局この事件は双方の顔役の仲裁により手打ちとなりましたが、何しろ魚河岸連中の気組の荒さは後々まで語り草になったと言います。また、こんな最中も八丁堀の同心たちは見て見ぬふりをしていたといいますから、これもまた娯楽の一種だったかもしれません。
こうして楽しいケンカデイズを送ってまいりました魚河岸でしたが、そこに突然とんでもない事件がふりかかります。
“シャレにならない大事件”
時は幕末、風雲急を告げる騒乱の時代。鳥羽伏見の戦いに敗れた幕府軍は江戸に撤退。官軍の江戸総攻撃が迫っておりました。江戸には徳川八万旗が温存されてはおりましたが、300年もの太平に慣れた武士たちは戦意も乏しく団結力もないといったありさまで、江戸から逃げ出す者もあいつぎ、ここに幕府は存亡の危機を迎えることとなりました。
そんな折、町奉行所より魚河岸総代へ異例の呼び出しがありまして、
「容易ならざる時節柄、薩長軍が攻めて来た時の江戸防衛軍にあたり、その方らの勇ましい気性を見せてもらいたい」
つまり江戸防衛軍として官軍と戦えというのです。
さすがにこれには血気盛んな魚河岸連中も 頭を抱えてしまいました。さっそくみんなで会合を開き善後策を講じますが、互いに顔を見合わせて黙りこくるばかり。あまりにも相手が大きすぎるためにケンカ相手として実感がわいてこないのです。
するとそのとき、魚河岸でも豪気でなった魚河岸総代の相模屋武兵衛が一同に向かって「みんな、よっく聞いてもらいたい」と口火をきりました。
「我らは慶長(けいちょう)の時代より将軍様の御用をつとめてきた。以来、紆余曲折こそあったが、現在なお商売を続けられるのも、ひとえにお上のおかげだ。いま、町奉行より我々に助力を請うてきた。その恩返しをもって魚屋の意気を示そうではないか。だいいちだよ、薩摩だ、長州だのと、とんだイモや三ピンが官軍の名を借りて来た紙屑拾いに、この日本橋を渡らしたら、それこそ江戸っ子の名折れじゃねえか。こいつぁな、沽券にかかわることなんだぜ!」
この熱のこもった弁舌に感激した一同は、「そうだその通りだ!」「やろうじゃねえか!」などと口々に叫びながら、立ち上がって腕を振り上げたのでありました。無謀といえば、あまりに無謀なお役目。しかし、引くに引けない魚河岸の気風に突き動かされて魚河岸は官軍の江戸総攻撃に備えての防衛軍の役を買って出ることにあいなりました。数万の幕府軍を打ち破った官軍に対して町人が立ち向かうなど、自殺行為にも等しいもの。しかし、いったん火のついた魚河岸連中を止めることなど誰にもできはしません。
命すら捨てる覚悟の彼らは、さっそく武兵衛(たけべえ)を総大将にして、魚河岸会所(かいしょ)を本陣とする江戸防衛軍を結成いたします。魚河岸とびきりの兄イ千人が集結し戦の準備に余念がありません。そうして毎日みんなで集まっていれば炊き出しもありますし、景気づけに酒なんぞも出てきます。次第に怖さも薄れ、あんな田舎者なんてひとひねりだぜ、なんて相手が武士だというのも忘れ、心持ちだけはどんどんどんどん大きくなっていきます。
そうこうするうちに、ついに官軍が品川に着いたという知らせが町方より入り、さっそく太鼓を打ち鳴らして、いざ出陣っ!とばかりにいくさ装束に固めた兄哥連が飛び出します。しかし、そのいでたちといえば、サシコ半纏(さしこばんてん)に股引き(またひき)の草履ばき、頭には魚河岸と染め抜いた手拭いを巻き、武器といえば魚包丁、竹槍、鳶口といった商売道具。どこをどう見ても、軍隊というよりは田舎芝居の一座といった風情にございます。
それでも日本橋際に、数百人からの者たちが集まり、各町内の月番が部隊長となって隊士の編成に余念がございません。全員が集まると、総大将の武兵衛(たけべえ)が前に進み出て指示をいたします。
「皆の者、よおっく聞いてくれ。敵が攻めてきても、うかつに飛び出して行かねえように。敵方には大砲やら鉄砲やらがある。正面から戦っちゃあ、元も子もねえ。勝機は接近戦あるのみ! そこで兵をふたつに分け、敵が日本橋にさしかかった時に、本船町と四日市側からはさみ打ちにする。肉弾戦となれば弾丸より気組(きぐみ)だ。刀よりゲンコツだ。我らの勢いを存分に見せてやろうじゃねえか!」
武兵衛は作戦を伝え、全員を鼓舞しながらも、戦いを前にして手のひらがじっとりと汗ばんでくるのを感じておりました。
しかし、まさにその時です。
「……やめ? やめだと? そりァ、どういふことでぇ?」
この日、二月十三日。勝海舟は芝高輪に官軍の参謀、西郷隆盛を訪ねて会談し、江戸城の無血明渡しが決まりました。徳川慶喜は恭順の意を表して上野寛永寺に謹慎。官軍は江戸の混乱をさけるため、一時品川にどとまりまして、江戸市中が戦火にまみえることは避けられました。 早速、町奉行所から魚河岸に江戸防衛軍の解散が命じられます。これまで気を張っていた連中は、すっかり拍子抜けして、その場にへたり込んでしまいました。
幕府の危機を見過ごせず、魚河岸が身体を張って応戦しようとしたことは、まことに義理に厚い勇気ある行動でしょう。とはいうものの、もしも官軍が本当に江戸に攻め入ったなら、素人防衛軍は日本橋に惨たらしい死骸の山を築いたかもしれません。一人の怪我人を出すこともなく、魚河岸が後世に存続できることになったのは、幸いだったといえるでしょう。
今回は現在も残る魚河岸の威勢の良さ、ケンカ早さ。それは江戸時代の日本橋魚河岸ゆずりのものだということをお話いたしました。
|