“山芋変じて鰻と化す”
鰻というのはまずもって妙なかたちをしています。昔の人はこのおかしな生物をいろいろと想像しました。日本では「山芋変じて鰻と化す」といって、山芋の化けたものが鰻にちがいないと本気で信じました。その理由は両方とも長いから。なんて短絡な発想でしょう。でも鰻も山芋も滋養強壮効果がありますから似てなくもない。山芋が鰻に化けてのたくると栄養価も数倍になるよ、といえば「あ、そうかしれない」と考えたくなりますね。
外国人も相当変テコで、かのアリストテレスなども「鰻は泥から生まれる」と本気で説いておりますし、旧約聖書のモーゼの教えには「鰻を食っちゃいけねえよ、ウロコがねえ魚だからナ」とあります。哲人にとっても、聖人にとっても、鰻は実につかみどころのないものだったことが分かります。
“火山の爆発で鰻屋できる”
そんなワケの分からねえもんは喰えるかい、と江戸っ子が言ったかどうか分かりませんが、「江戸前」という輝かしい称号をいただいた鰻の蒲焼も、それが登場するのは江戸時代もだいぶ下ってのことなんですね。天明年間に浜町河岸にできた「大黒屋」というのが江戸の鰻屋のはじめといわれています。それまでは江戸っ子は鰻を食わなかった。というのもその頃、外食というのは大変に外聞の悪いもので、武士はもちろん町人でも買食いをきらいましたから、食べもの屋はなかなか発達しませんでした。ことに鰻ばかりは家では美味くあつらえることはできませんから、鰻屋ができるまで長らく人びとは美味い鰻の蒲焼からおあずけをくったわけです。
さて、はじめて鰻屋ができたというのも、天明という時代と大きくかかわっています。この頃は浅間山爆発に続く大飢饉に見舞われまして、江戸では救民策として炊き出しなどが行われましたが、それとともに多くの屋台店ができました。それまでの担売り、振売りから屋台売りというスタイルへと移行していく契機ともなったわけで、ぜったいに立ち食いなどしなかった武士さえもこっそりと食べるという風情が生まれてきました。そして、屋台店で人気となったものを店構えで提供するという風にして鰻屋なんぞというものができたのじゃないかと想像されます。
“テイクアウトの元祖、商品券の元祖”
鰻料理というのはなかなか融通の利かないものとなっておりました。「旅鰻」はいけない江戸前の地のものに限るといって何としても江戸市中で食べた。また、冷めると旨くもなんともないから、取り寄せはダメだ。それなら串刺しの奴を買ってきて自分のところで焼けば良いだろう、と思うのですが、これもダメ。手前鰻は猫またぎといって、あの焼き方はとても素人にはできないといわれていました。そこで鰻というのは店に出かけて行って食わなければお話になりません。
でも、鰻は食べたいけれど、身分というものもあり、どうしても店に行けない、なんぞという人がいました。そこで一計を案じてあつらえたのが「おから鰻」というもの。これは豆腐の殻を煎って、薄く醤油で味つけし、熱くしたやつを重箱に詰めます。それに蒲焼を入れて持ってくる。これで熱々が食べられる寸法ですね。実はこれが現代でいうところのテイクアウトの初めなんです。
また鰻には進物用の「切手」というのがありました。先に代価を支払っておき、受取書付に代を書き入れたもので、これを贈答として使います。まことに手の入ったやり方ですけれども、これで相手は好きなときに熱々の蒲焼にありつけるわけです。これなどは商品券のはじまりといっても良いでしょう。
“鰻丼を発明した男”
文化文政期に日本橋堺町中村座の金主(資金を出す人)に大久保今助という人がおりまして、この人は何かと話題が多い有名人なのですが、なかでも鰻丼の発明者といてその名を残しました。
今助が故郷常陸国太田に帰る折、牛久の茶店で今しも蒲焼に食らいつこうという矢先、「おうい、舟が出るぞ〜う!」の船頭の声。今助はとっさに蒲焼の皿を片手に持つとかたわらのどんぶり飯の上に逆さにかぶせて、あわてて舟に乗り込みました。そして対岸に着いてから皿のふたを開けてみると、蒲焼が飯の温度で蒸されて柔らかく、タレは飯にしみこむし、とても旨い。うむ、これはいける!
さて、この人普段から鰻を食いに行きたいのですが、何しろ芝居の金方ですから忙しくて表に出られない。取り寄せたのでは焼きざましになってしまいます。そこでこの逆さ丼の方法で、熱い飯を入れた丼を持たせてそこに串ごと入れたやつを持ってきて食うということをはじめました。これは大変に旨い。実に合点のいく食べ方だということで芝居町を中心に大変に流行りました。これが鰻丼のはじまりで、今助はその創始者ということになっております。
でも鰻丼を注文するのは鰻屋ではあまり喜ばれませんでした。大体丼ものなどというものがまったく下賎な食い物だという通念があったんですね。
それで明治になっても「和田平」とか「大黒屋」といった良い店になると、鰻丼の客は二階に上げなかったといいます。下の調理場の横っちょで食わせるという大変にぞんざいな扱いをしたんですね。そんなものを食う客など軽蔑の極みだという鼻息です。なら出さなきゃいいのだけど、何しろ売れるから出す。だから普通の蒲焼よりも一段落ちるものを使ったんですね。
“土用の鰻”
さて、土用といえば鰻と相場が決まっています。暑い盛りに街頭で蒲焼のにおいを嗅げば、もうパブロフの犬よろしく足が自然と店内へ向かっているでしょう。「土用の鰻は脂がのって旨いし精がつくもんな」。何が何でも鰻を食わずばいられなくなる。でも、鰻の本当に美味しいのは秋。天然物のホクホクとしたやつが出回るのは、もうすっかり涼しくなったあとなんですね。
「土用の鰻」が習慣化したのは、よく知られていることですが、江戸時代の博物学者である平賀源内が、暑い季節に売れ口の悪いと嘆くなじみの鰻屋を流行らせようと「本日土用丑の日、鰻の日」と書いたところ、何か理由はわからねえがきっとありがてえんだろう、と江戸っ子が飛びつき大繁盛していらい定着したと言われています。もうひとつ説があります。同じく江戸に春木屋という鰻屋が、大量の鰻の注文に一日では受けきれないために、土用の子の日、丑の日、寅の日に分けて焼いたら、丑の日のものが最も味が良かった。そのため鰻は土用丑の日に限るとされるようになったといいます。いずれにしろこじつけですが、確かに夏バテ気味のこの時期、滋養満点の鰻がもてはやされるのも当然でしょう。
ああ、お話している間に鰻が食べたくなりました。土用の鰻を食べに行こう。そして、秋になったら旬の鰻も食べよう。人生楽しまなくっちゃね。
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