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伝統的食文化の行方を、築地魚河岸の現場からお伝えします 魚河岸発!
今月のテーマ:マグロ物語(其の一)
なんでもマグロは寿司ネタのなかでも人気第1位だそうですな。マグロ屋を営んでいる者と致しましても大変うれしゅうございます。でも私は寿司の中ではアワビが好きですね。まあ、それはともかくとして、今や人気沸騰のマグロもこの栄光ある地位にたどりつくまで、それはもう大変な紆余曲折がございました。今回と次回の2回にわたり、このマグロの涙の出世物語を語りこみたい、とこんなふうに思います。

“マグロはサンマではない”

 マグロ、とひと口に申しましても、げに巨大なるこの魚をなぜにマグロなんぞと呼ぶようになったか、疑問にお思いではございませんか? ナニ、別に疑問に思わない? 思いなさい! 何事にも疑問を感じ真実を追及する姿勢こそが21世紀のインテリゼンスなんぞと申しまして云々。そこでまあマグロの語源という普遍的疑問に応えるべく、ものの本なんぞをひもとくと、こんなことが分かりました。
その昔、日本近海には背中の大きい黒っぽい魚がたくさんおったんですな。それこそ海のなかにミッシリとしてましたから、海が真っ黒に見えた、と。ああ、真っ黒だ、ま黒だ、こいつあマグロだ・・・・・・とこうなったわけです。ウソじゃねえよ。これが定説なんだから馬鹿馬鹿しいじゃねえか! あと、もうひとつの説がございまして、『本朝食鑑』という江戸時代の食べ物誌ですな。そこには「その眼が黒き故にマグロ」とありまして、うわあ眼が黒いや、眼黒だ、眼黒・メグロ・こいつあマグロ・・・・・・と。どっちみちツマラン理由です。
どちらかというと、これ、眼黒の方がどうやら本当のようでございますよ。江戸の半可通が眼黒を目黒の魚とカン違いして「サンマ」だと言って恥をかいた、などという話が残っております。もちろんマグロとサンマとは何の関係もござんせん。

“マグロは縁起の悪い魚”

 それでアレだ、マグロは昔、縁起の悪い魚だったことを知らねばなりませぬ。マグロなんぞは下の下の下の下魚だと。♪ゲ・ゲ・ゲゲゲのゲ〜
江戸時代にはマグロのことを「シビ」といいましてな。正確には「大きいものをシビ、中くらいをマグロ、小さきものをメジカ」としていたようでございますが、一般的にはマグロ全体が「シビ」という名前で認識されておったのでございます。
この「シビ」という名称、武家方では非常に忌み嫌いましてね、絶対に食べなかった。というのも「シビ」は「死日」につながるということで・・・。いやもう笑ってしまうような言いがかりでございますが、どうも武士は語感をやけに気にいたしますな。
また、語感の悪さからばかりでなく、遠洋を回遊するマグロどもは血液中のヘモグロビンが・・・などとむずかしい話はどうでも宜しいのですが、つまり赤身の魚であるマグロというものは時間が経つとすぐに黒ずんでしまう。これがいかにも下品に見えてしまうということで評判が悪かったのでございます。
おかげでマグロは縁起の悪い魚、賤しい魚というありがたくないレッテルを貼られてしまい、何百年も冷や飯を食わされた、と申しますか、冷や飯のお供にもしてもらえなかったというマグロ暗黒時代を迎えることになったのでございます。

“ヘグリノシビの物語”

 それでもマグロという魚は、いにしえの時代から人びとに親しまれておったのでございますよ。縄文時代の遺跡からマグロの骨が出土しておりますし、古代人の胃袋を満たしたことには間違いありません。ですから昔ばなしなんぞにも登場いたします。
  武烈天皇の御代と申しますから、今から千七百年も昔になりますか。その頃、平群鮪(へぐりのしび)という名の豪族がおりました。この者が大変に腹黒い。そしてその父親の平群真鳥(へぐりのまとり)はさらに輪をかけての陰謀家で、当時最も力のある臣下として朝廷の権力を欲しいままにし、おごりの限りをつくしておりました。
あるとき、そのおごりがとんでもなく増長し、平群親子は何とか皇位をものにしたい、などという妄想にとりつかれてしまったのでございます。その頃、物部?鹿火(もののべのあらかび)に影姫(かげひめ)という美しい娘がおりまして、当時皇太子であった武烈天皇は、この娘を后に娶りたいと熱心にプロポーズを持ちかけておりました。しかし、あろうことか真鳥は息子の鮪に命じてこの影姫を犯して、懐妊させてしまいます。
ふははははは。これで最早王位継承は我が手に。これからは鳥と鮪の時代だ、とでも思ったのでありましょうか。ところが、そんな思惑通りになるはずがございません。太子の怒り尋常ではなく、豪族大伴金村と命じて平群親子を火攻めにしてこれを誅伐いたしました。この功によって大伴氏には「大連(おおむらじ)」という最高の執務官の称号が与えられるのでございます。
   焼き鳥に平群を料る大連
  これは平群真鳥と焼き鳥とをかけた歌なのですが、大昔に腹黒い豪族のことを「焼き鳥」と呼んだそうでございます。同様にその息子もまた腹黒かったので、「黒い魚」のことをシビと呼んだのではないか、などと言われます。

“食べたよとそっと耳打ちするマグロ”

  長いこと下魚などと蔑まれ、すっかり世間様から肩身の狭い暮らしを余儀なくされておりましたマグロ。それも「シビ」という語感の悪さというのだから可笑しいではございませんか。まあそれはともかく、すぐに黒ずんでしまう色合というのは是非もないお話でございました。何しろ遠海からマグロを運ぼうにも、いかに船足の速い八丁艪(はっちょうろ)であろうと、江戸市中に出回る頃にはどうにも鮮度も落ちてしまいます。
  鮪売り根津へへなへなかつぎ込み
 現在の文京区根津のあたりは、日本橋魚河岸からおよそ一里の距離にあります。この辺まで棒手振(ぼてふり)の鮪売りがやってくる頃には、魚もへなへな(干乾びた様子)になってしまうという川柳で、またこんな場末には、へなへなの鮪を喰らう田舎者しか住んでいないという意味にもとれますな。江戸中期、吉宗将軍がマツケンサンバを踊る頃になっても、マグロなんてのは裏長屋の熊さん八つあんが金のないときに仕方なく食べるもので、たとえ町人といえ表店の者は絶対に口にしなかったというのでございます。何と嘆かわしいことでございましょう。
 もう少し時代が下っておよそ文化年間(1804〜18)になりますと多くの人がマグロを食べるようになったといいますから、ああ、良かったこれでマグロもようやく陽の目を見るか、と思いきや、「皆、隠れてこれを食し」たようで、おおっぴらには食べないのです。そして、「マグロを食べたよ」と他人にこっそり耳打ちしたと申します。まったく失礼千万な話ですね。人びとがマグロのおいしさに気づきはじめても、下魚のレッテルはしっかりと貼られたままだったのでございます。
さても人気のないマグロがいかにして起死回生を果たすか。これからがまさに面白いところなのですが、残念、今回はここまで。



生田與克―いくたよしかつ
1962年東京月島に生れる。
築地マグロ仲卸「鈴与」の三代目として築地市場で水産物を扱うなかで自然の恵みの尊さ、日本特有の魚食文化の奥深さを学ぶ。
現在、講演会などを通じて魚食の普及に努めるほか、ホームページ「魚河岸野郎」を開設。魚河岸の歴史と食文化を伝える“語り部”として精力的に活動している。

「築地の魚河岸野郎」
http://www.uogashiyarou.co.jp/


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2005年2月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  

 

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