四季おりおりの味わい
春先のシラウオのぷりぷりした食感。夏アユのさわやかな味わい。秋といえばサンマの煙が何とも食欲をそそるし、寒風にふるえて飛びこんだ縄のれんでお腹に入れるアンコウの温かみ――何と幸せなことに私たちは四季おりおりの魚を存分に味わうことができます。魚の名前そのものが季節感をともなって頭に浮かぶほどに、旬の味覚は私たちの生活をどれほど豊かに彩ってくれることでしょう。
魚はある時期にたくさん出回り、そして最もおいしくなります。これを私たちは旬と呼び、旬の魚といえば、安く買える、おいしく食べられるものだと考えます。それは全くその通りで間違っていません。でも、考えてみれば面白いですよね。だって、一般的な生産物は価値が上がるにしたがって高価になるのに、魚はその逆なんですから。なぜでしょう。
魚は自然がつくっています
それはもちろん魚が自然による生産物だからです。
たとえば米や野菜は魚と同じ自然食品ですが、自然環境の力を借りながらも、栽培という人間の手が加わっています。技術によって生産高や品質を調整することだって可能です。ところが魚は人間によって生み出されることはありません。養殖というかたちで生育を助長させることはできますが、大勢に影響を与えるほどではないでしょう。魚はすべて自然によってつくられるものです。人間はいっさい手を出すことができません。
すると魚の旬とは、たくさん獲れて安いときだとか、いちばんおいしくなるときだというのは、あくまでも人間側の都合であって、本当はそれをつくりだす自然の方に何らかの事情があるのじゃないか。そんなふうに思いませんか。
魚は産卵前にデブになる
魚市場を歩いてごらんなさい。いろいろな魚が並んでいますが、とくに旬を迎えたものはきわだって見えます。今の時期ならサンマでしょうか。丸々と太ったサンマ。こいつが「さあ、おいしいわよ。食べてごらんなさいよ。」なんて話かけてきますね。いや本当の話。
旬の魚って、みんなデブです。それというのも魚は産卵期に近づくとせっせと餌を食べて太ります。そうして身にたっぷりと脂をまとって、ああ満腹とか言いながら産卵のために移動をはじめるんですよ。魚によって産卵期はまちまちですが、それぞれ季節ごとにこのような行動をします。この産卵期前、あるいは産卵中の魚が最もおいしく、たくさん捕獲されることから旬と呼ぶわけですが、もとを正せば生命の営みのために自然が用意した偉大なサイクル。それを人間がかすめ取っているわけで、まさに自然の恵みそのものなんですね。ああ、ありがたい。
本当にありがたい
季節ごとにおいしい魚を食べられてありがたいですね。本当に幸せ! と感じなればいけないと思います。昔の人はもっともっと切実に旬のありがたみを感じたものなのですよ。昔といっても、ほんの50年ほど前のことで、その頃には魚は今よりずっと高価で貴重なものでした。ことに鮮魚なんて滅多に口に出来なかった、いや、嘘じゃないですよ。魚はすごく大切にされていたのですから。
なぜかというと昔は冷蔵技術も輸送手段もなかったからです。全国津々浦々まで新鮮な魚が行き渡るなんて夢のまた夢、たとえ漁獲地であっても収穫の時期は限られていますから、いつもは塩づけの魚とか保存食を食べていたんです。それが旬の時期になると、おいしい鮮魚を口にできる。それは特別なことで自然の恵みに心から感謝したのです。
やっぱり旬が大事
技術が進歩した今では、どこに住んでいても好きなときに好きな魚が食べられる時代になりました。そのうえ人びとの欲求を満たすために世界中からどしどし魚が集められます。でも、それってあんまり欲ばり過ぎてはいないでしょうか。いつでもおいしい魚があるなんて本当はとても不自然なことです。いっそなくてもいいんじゃないかって気もしますね。食べたいものが食べられない――そんなときには良い方法があります。それは食べないで我慢することです。
くりかえしますが、魚をつくりだしているのは自然です。人間はそこからかすめ取ってくる技術を発達させただけのこと。だから自然の恵みを越えて欲しがれば、自然のバランスをくずすことになり、結局は何ももらえないということにすらなりかねません。それよりも旬をありがたく食べる方がずっと理にかなってますよね。自然に対しても良いし、おいしくて健康にも良い。ついでに財布にもやさしいとなれば良いことづくめです。
旬を知ること。それはおいしい魚を食べること。それとともに食べられないこともあると知ることでもあります。
「魚河岸発!」と題するこのコラムでは、先人によって培われた伝統的食文化の行方というようなものを、築地魚河岸の現場から皆さんにお伝えしていきたいと考えております。
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