日本橋美人新聞 増刊弐号(2007年)掲載
他人の気持を思いやることのできる聡明さは”心も身体も美しい“日本橋美人の魅力。現在「江戸しぐさ」が静かな話題になっているのも、相手を尊重し思いやる気持ちから自然にうまれる美しさを求める心の声があるからでしょう。豊かな教養に裏付けられたたおやかな感性をもつ女性は煌いています。日本橋美人ブランドの価値観の根底にある江戸の優美な感性について、江戸思草の第一人者である越川禮子氏に伺いました。
徳川家康は、江戸の未来を「水清く入江にありて真魚(まな)豊か、四方(よも)見渡せる商いの町」になるだろうと洞察しました。そして江戸に首都を建設するための企画に三年をかけ、次々と実施していきました。中でも、幕府への高い忠誠心を持った商人集団を千人あまり移住させたことはユニークだと思います。この商人集団が江戸のまちづくりに必要な兵站(へいたん=補給)業務を分担しました。 船による物資の輸送が江戸の都市機能を支えており、大型船で江戸まで輸送された全国の産物は小舟に積み替えられて江戸の各地に運ばれました。 商人たちは、船の輸送システムを利用して全国から建設資材を運搬し、労働力を送り込みました。また、これらの人々のために住まいの確保や食料供給の「ケータリング」まで行っていたといいます。 江戸商人は「口約束を必ず実行する」という信用が大切でした。この信用が「幕府御用達」商人の起源となったと言われています。豊かな経験や才覚、人間を互角に見るセンスを持った商人こそが、江戸のまちづくりのために采配を振るえることを家康は見抜いていたのです。 普請のときも周囲との調和を大切にした
百万人の大人口を擁する都市・江戸が出現すると幕府は、町衆が自治権を持って町を運営することを認めました。多くの人々が密集して暮らす都市では、互いに気持ちよく生活するために知恵を絞り、相手を尊重し合いました。そのためのルールをつくり、それを実践するために「躾」も行いました。それが「江戸思草」となっていったのです。 江戸思草を実際に学びあう場が、町衆の組織した「講」でした。町衆はその時々の課題を解決するために集まって話し合い、必要があれば講師を招きました。新しい建物を建設するときは講中で話し合い、街の景観を重視して家の甍の色を決めたと言います。家は自分のものではなく町で生活するみんなのものだという、江戸思草の考え方が貫かれていたのです。 江戸の河川は物流の大動脈だった
資料提供:ベルリンアジア美術館所蔵 小澤弘 小林忠 共著 「『熈代勝覧』の日本橋」より 江戸思草を振る舞って暮らしていた江戸の人々は、一人一人が誇りをもち、礼儀をわきまえていました。往来は麻のぞうりを履いて静かに歩き、門口の樹木は家主の責任で手入れされていました。寺社の境内の玉砂利は丁寧に磨いてあって足袋やはだしでも歩けたと言います。家に病人がいる時にはそれとわかるように目印をつけることにより行商人も声を落として通過したり、焚き火をする時には予め近所に断りを入れるなどの慣習がありました。 自治権を持った町衆は、「自身番」制度を設けて町内の治安を維持していました。「火の用心」の夜廻りなどもその名残りです。「江戸の華」といわれた火事は頻繁に起こりましたが、同じ原因で二度と火事を発生させないのが「江戸思草」の大切な心得とされました。 また、近くに同業の店が多数あった場合でも、いつもどこか一軒は開店するようにしていました。利用客の利便性だけでなく、仕事のシェアリングによる共存共栄を図っていたのです。過当競争を避け、相互扶助による暮らしやすいコミュニティをつくる知恵が、江戸思草の基本でした。都市がハードウエアだとすれば、そのハードをより良く動かすのに欠かせないソフトウエアが江戸思草だったと言えるでしょう。 |
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