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日本橋美人新聞 増刊参号(2008年)掲載
人々は時代の風を吸収しながら自らの英知で新しい街を創造してきました。日本橋美人ブランドの精神の根底にある創造の歴史を紐解き江戸の人々の美しさをあなた自身のものにしていきませんか。
![]() ![]() また、教養を積んだ女性には武家奉公などの道も開けるため、幼いころから女子専門の寺子屋で躾(しつけ)や作法を学ぶ子どももいました。 寺子屋は、「読み・書き・そろばん」の教育のみならず、証文作成や手紙の書き方など、生活に必要な知識を学ぶための場でもありました。 参考文献:石山秀和「寺子屋での教育」(『江戸時代館』小学館、所収) 資料提供:公文教育研究会所蔵 「幼童席書会」(歌川国芳)より ![]() ![]() 江戸期には幕府直轄の東海道・中山道(中仙道)・日光街道・奥州街道・甲州街道という五街道およびその付属の街道と、各藩の大名に統治がゆだねられていた脇街道がありました。中でも東海道は江戸と京都を結ぶ主街道として最も重視され、その間に五十三の宿場が置かれ、各宿場には人足100人と馬100疋を常備することになっていました。 このように、江戸時代から街道を中心とした街づくりが行われました。日本橋を起点とする五街道が原点となって、現在の道路交通網が形成されました。 参考文献:武部健一著『道のはなしT』(1992、技報堂出版) ![]() ![]() 天正18(1590)年、徳川家康が江戸入りした際、以前本能寺の変で苦難に落ち入った家康を漁民達が助けたという事から、摂州国西成郡佃村(現在の大阪市淀川区佃町)の名主森孫右衛門が、漁民30名あまりを率いて江戸へ移住しました。幕府から命じられて鮮魚御用人となり、鮮魚を幕府の膳所台所に供し、残った魚を本船町で一般に販売したことに日本橋魚河岸の起源があるといわれています。 近代になり、日本橋が東京の中心地として栄えるとともに、魚の鉄道輸送の発達と河岸の狭さから、移転問題が起こりました。そして、大正12(1923)年の関東大震災で魚河岸が焼失したのを機に築地へと移転しました。 現在の築地市場も非常に盛況で、活気にあふれています。しかしながら手狭なことから、東京都は平成24(2012)年までに、築地市場の豊洲移転を構想しています。 参考文献:『東京都の地名』(日本歴史地名体系13、平凡社) 日本橋魚市 長谷川雪旦作『江戸名所図会』(国立国会図書館所蔵) ![]() ![]() ![]() 資源リサイクルの例では、紙の再利用が挙げられます。不要になった古紙は古紙買い、反古紙(ほごし)買い、紙くず買いなどと呼ばれる業者が買い集め、ほとんどが再生紙となりました。江戸では吉原に近い浅草山谷(あさくささんや)付近に紙の漉き返し職人が多く、「浅草紙」と呼ばれて親しまれました。 また古紙を三、四枚重ねて張り合わせ、柿渋を塗ると渋紙ができました。湿気に強く防虫効果もあったため、日よけや敷紙、荷づくり用に多く活用されていました。 このように、江戸時代のリサイクルシステムは、消費が拡大する現代社会でも、見習うべき点が多くあります。 参考文献:大石学「リサイクルの仕組み」(『江戸時代館』小学館、所収) (上)古着売り『猿猴庵江戸循覧記』(財団法人東洋文庫所蔵) (下)紙くず買い『守貞謾稿』(国立国会図書館所蔵) 制作協力:(株)建設技術研究所 国土文化研究所 |
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