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日本橋美人の美意識

HOME > 日本橋美人の美意識 > 創:伝統が培った技 創る・日本橋美人
日本橋美人新聞 増刊弐号(2007年)掲載

創 伝統が培った技


技を持った職人たちは時代の風を吸収しながら新しい伝統を創造してきました。日本橋美人ブランドの精神の根底にある創造の歴史を紐解き江戸の人々の美しさをあなた自身のものにしていきませんか。

浮世絵師の技が伝える江戸日本橋

『初春の越後屋』鳥居清長 呉服店の越後屋は駿河町一帯に広く店舗を構え、江戸一番の賑わいでした。この絵は寛政元(1789)年頃のもので、通りの両側は越後屋、遠くに小さく富士山が見えて凧が揚がる、新春の風景です。
鳥居清長は日本橋材木町の書肆(しょし)「白子屋」に生まれてのちに浮世絵師となり、伸びやかな人物描写が特徴とされます。小顔でスラリとした独特の美人は、時代の明るい空気を映しているとも言われます。品性や知性が感じられる女性たちは、現在の目からしても魅力的です。流行の発信地であった越後屋の前を彼女たちがゆったりと歩くさまは、日本橋が美人を育む地であることを示しているようでもあります。
『日本橋魚市繁栄図』歌川国安 日本橋魚河岸(魚市場)は日本橋・江戸橋間の北岸に設けられ、江戸の台所として賑わいました。その繁栄ぶりは「朝千両の商い」と言われ、芝居町(昼千両)、吉原(夜千両)と並び立つものとされました。
歌川国安は寛政6(1794)年に生まれて39歳で早世しますが、美人画や役者絵を得意としました。この絵にも天秤棒に盤台(はんだい)を提げて駆け出す棒手振(ぼてふ)り、腹掛けや赤褌に鉢巻を締めてきびきびと働く男たち、そして買い物客たちまで、それぞれ表情豊かに描かれています。魚河岸の人々は威勢がよくて義理堅く、強きをくじき弱きを助ける独特の気風があったと言われます。国安の視線は、魚河岸を支える人々に対して向けられていたようです。
『冨嶽三十六景』江戸日本橋 葛飾北斎 葛飾北斎は宝暦10(1760)年に生まれ、20歳前後で世に出たのち約70年間にわたって活躍を続け、豊かな感性は海外にも影響を与えました。
『冨嶽三十六景』は70歳頃の作品で、この一枚は日本橋から西方を望んだようすです。
川の両側に蔵屋敷が並び、前方に江戸城を望み、霞の向こうには富士山がそびえています。強度の遠近法により、橋上の賑やかさと整然とした町並み、そして富士山の遙かな姿が対比されています。各地から江戸湊(えどみなと)(隅田川沖)まで運ばれた物資は、小型船にて日本橋川沿いの蔵屋敷へと届けられます。日本橋は全国の物産の集約地として、経済や文化の面でも豊かな地となりました。
『東都名所』日本橋雪中 歌川広重 歌川広重は寛政9(1797)年に江戸・八代洲(やよす)(八重洲)河岸の火消同心の家に生まれ、のちに浮世絵師となりました。『東都名所(とうとめいしょ)』は30代なかばで発表した作品で、優れた構図と精細な筆致は広重の名を大いに高めました。
真白な雪につつまれて静かに佇む日本橋を、青い水面と冬の暗い空が引き立てます。京橋周辺に住んでいた広重にとって、江戸のシンボルである日本橋はなじみの深い自慢の景色だったことでしょう。風雅の代表たる雪を用い、江戸城と江戸の人々がこよなく愛する富士山を幻想的に配し、日本橋の最も美しい瞬間を描こうとした広重の思いが伝わってくるようです。
『時代世話當姿見』横ぐしのおとみ 三代歌川豊国 現在の日本橋人形町三丁目にあった玄冶店(げんやだな)は、嘉永6(1853)年に初演された歌舞伎『世話情浮名横櫛(よわなさけうきなのよこぐし)』の舞台として有名です。互いに死んだと思っていたお富と与三郎が偶然に再開する場面で、原作では「源氏店(げんじだな)」として鎌倉に置き換えられていますが、舞台はここです。この一帯にはかつて幕府お抱えの医師であった岡本玄冶(げんや)の拝領屋敷があり、喧騒から少し離れた落ち着きのある邸宅街でした。
三代歌川豊国(歌川国貞)は79歳で亡くなるまで、役者絵を中心に一万点以上とも言われる膨大な作品を残しました。優れた表現力はこの絵でも発揮され、しっとりとした家並みの風情が湯上り姿のお富の粋さを際立たせています。


資料提供:(株)第一興商 / (株)J・ストーリー
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