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日本橋美人新聞 増刊弐号(2007年)掲載
技を持った職人たちは時代の風を吸収しながら新しい伝統を創造してきました。日本橋美人ブランドの精神の根底にある創造の歴史を紐解き江戸の人々の美しさをあなた自身のものにしていきませんか。
![]() ![]() 鳥居清長は日本橋材木町の書肆(しょし)「白子屋」に生まれてのちに浮世絵師となり、伸びやかな人物描写が特徴とされます。小顔でスラリとした独特の美人は、時代の明るい空気を映しているとも言われます。品性や知性が感じられる女性たちは、現在の目からしても魅力的です。流行の発信地であった越後屋の前を彼女たちがゆったりと歩くさまは、日本橋が美人を育む地であることを示しているようでもあります。 ![]() ![]() 歌川国安は寛政6(1794)年に生まれて39歳で早世しますが、美人画や役者絵を得意としました。この絵にも天秤棒に盤台(はんだい)を提げて駆け出す棒手振(ぼてふ)り、腹掛けや赤褌に鉢巻を締めてきびきびと働く男たち、そして買い物客たちまで、それぞれ表情豊かに描かれています。魚河岸の人々は威勢がよくて義理堅く、強きをくじき弱きを助ける独特の気風があったと言われます。国安の視線は、魚河岸を支える人々に対して向けられていたようです。 ![]() ![]() 『冨嶽三十六景』は70歳頃の作品で、この一枚は日本橋から西方を望んだようすです。 川の両側に蔵屋敷が並び、前方に江戸城を望み、霞の向こうには富士山がそびえています。強度の遠近法により、橋上の賑やかさと整然とした町並み、そして富士山の遙かな姿が対比されています。各地から江戸湊(えどみなと)(隅田川沖)まで運ばれた物資は、小型船にて日本橋川沿いの蔵屋敷へと届けられます。日本橋は全国の物産の集約地として、経済や文化の面でも豊かな地となりました。 ![]() ![]() 真白な雪につつまれて静かに佇む日本橋を、青い水面と冬の暗い空が引き立てます。京橋周辺に住んでいた広重にとって、江戸のシンボルである日本橋はなじみの深い自慢の景色だったことでしょう。風雅の代表たる雪を用い、江戸城と江戸の人々がこよなく愛する富士山を幻想的に配し、日本橋の最も美しい瞬間を描こうとした広重の思いが伝わってくるようです。 ![]() ![]() 三代歌川豊国(歌川国貞)は79歳で亡くなるまで、役者絵を中心に一万点以上とも言われる膨大な作品を残しました。優れた表現力はこの絵でも発揮され、しっとりとした家並みの風情が湯上り姿のお富の粋さを際立たせています。 資料提供:(株)第一興商 / (株)J・ストーリー |
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