竹内 誠館長、江戸時代の下町を語る
自分の町に誇りを持って住んだ
 「下町」は行政区画ではなく、一般の人が住んでいる地域の人々が考える通称、あるいは俗称の地名で、しかも山の手と下町ですから広域地名です。考えてみると江戸時代は江戸の町を三つに分けていた。
 まず山の手。江戸時代のどの資料を見ても「の」が入っています。「山手線」と言ってたのを私が文句を言って、国鉄時代ですが「山の手線」と言わせるようにしました。環状6号線を「山手通り」と、いまだ言っているのは腹立たしい限りであります。
 山の手に対しての下町。もうひとつの地域は、これは差別につながるのであまり言いたくないのですが、江戸時代の人は差別の意味で言ってなかったと思うんですが、場末という言葉です。山の手にはお武家さんが多かった。下町は大名屋敷もありますが、商人や持ち家が多かった。場末は農村部との接点で郊外につながっていく地域です。
 江戸の武家地は70%。一戸建て、土地付き、庭付きと贅沢な生活ができた。さらに全体の15%は寺社地です。大所では増上寺・本願寺・寛永寺・護国寺・浅草寺など。重要な街道の町はずれに大きな寺を置くことが城下町の作り方だった。敵が攻めてきた時に守る防衛拠点になり、これだけの広さがあると大部隊が駐屯できました。寺は今とちがって七堂伽藍、大勢のお坊さんが修業をしている。その人達が寝泊りする宿坊があり、食事をするための大きな食堂も釜もある。これは、いったん緩急あれば戦時態勢に切りかわることができたわけです。


江戸の町は山の手、下町、場末で構成されていた
 さて残りの15%。江戸の全人口は100万人といわれますが、中期になってからで、武家50万、町人が50から60万の間、さらに幕末には20万人ふえて70万ぐらいになります。その100万人都市の多くは武家にとられていますから、残りの60万人がどこに住むか、狭い15%の所に追いつめられちゃうから長屋が発達するということになります。江戸の下町は、お堀より東、隅田川より西側、それに新橋より北側、筋違門(今の須田町とか秋葉原の手前)より南、この範囲なんです。深川も浅草も入っていません。
 江戸の町はそれぞれの地域で特性があり、深川は「下町じゃないぞ」という気概があり、浅草は「なに、日本橋と一緒になってたまるか」という気概がある。それぞれ、江戸という所は面白い町で、誇りをもって住民は住んでいたんです。場末と言われても、それほど嫌やがる言葉でもないわけです。
 でも、きょうは言い訳をしなくてもすみます。ここ中央区は本当の下町、どこから何んと言われようとも下町であることには微動だにしないんですから。
 その下町も段だん広がっていくんです。江戸時代も後半になるとじわっと広がっていく。行政地名でないんですから、住民意識の問題ですから、広がっていって当然。そして幕末には浅草もなんとなく下町に、芝の地域にも街並がありますから新橋から広がっていく、という具合です。
 深川は江戸時代には威張ってたんですよ。「辰巳」と言って、「下町なんかと一緒にされてたまるか」とね。そちらの町とおれたちは違うんだという、はっきりした信念を持っていたんです。交通が便利になるなど、いろんなことが重なり、これが戦後になりますとぐっと広がり、今や下町は矢切りの渡しで渡ろうかどうか悩んでいる具合です。
 現在の中央区は江戸時代から昭和の始まりまでは下町の中心でしたが、スプロール現象で人が住んでいる場所じゃなくて勤めに来る場所になって、地域住民とか子供の声があがってごみごみしているといるということが段だんなくなって、こっちの方が下町の人情があるよっ、となって広がっていったんです。
 今年は江戸開府400年。下町とは「こういうもんだ」という、家元としての威厳を示して元気を出してほしいですね。


むこう三軒両隣が町の原点
両側町と長屋で下町人情が育まれ清潔な町だった

 江戸東京博物館で「大江戸八百八町」が開かれ、ベルリンの東洋美術館から「熙代勝覧」という絵巻ものを借りて展示している。日本橋から今川橋まで7,800メートルを12メートル30センチの絵巻に描いています。そこに描かれた店の数は90軒、路上を賑わしている人は1290人。魚河岸は雑踏で人が動けない状況で、この絵巻を私が勝手に名前をつけて、「日本橋繁盛絵巻」と呼んでいます。江戸の町は通りをはさんで両側にあり、入口と出口に木戸があって一街区となっています。むこうとこっちで両側町と言います。室町一丁目の通りは14メートルの幅があった。もうちょっと広かったけど、皆んな軒下に荷物を出すのでその幅になった。今は残念ながら人が歩く道じゃなくて、車が走る道になっちゃった。10メートルの幅があっても簡単に渡れない。そして今は区画整理によって向こう側は二丁目になってしまった。江戸時代は道をはさんで同じ町内でした。「むこう三軒両隣」が江戸時代は一つのコア(核)でした。これが今は「むこう三軒」はちがう町内ですから。一つのコアが連続して出来たのが江戸の町です。こうなると、お早ようと言えば向うからもお早よう、道路が汚れていれば、お互いにきれいにする。お互いの木戸が閉まったら自分の家と庭ですから、おのずとそこに人情が通い合います。両側の町の人が仲がいいから、その真ん中を歩く人も気分がいいですよ。雰囲気のただよい方がちがいますから。この両側町のあり方というもの、これからの生活設計には考えないといけないと思いますね。車が走る所と人が歩く所、その両方を考えるよりは、明確に分けることの方がよいようです。最近、国土交通省もそのように考えているようです。
 江戸の町の出来方の要素でもうひとつ大事なものが長屋です。江戸時代の長屋はほんとによく出来ているんです。(根津門前町の長屋絵図を示しながら)大家さんはいちばん奥の大きな所に住んで、27軒の借家の管理を地主からまかされている。表通りは2階家で商売をやっていて中流より上。江戸時代はお金もちも土地を持とうとしなかったんです。むしろ借家のほうが有利に働いた。税金がありませんし、営業税というのもほんのわずか。ましてや10年にいっぺん火事があるから、そのたびに苦労する持ち家の人より借家のほうがいい。50万60万の商人のうち70%は借家人。ということは借家人イコール貧乏人という図式ではなかった。一般庶民は中流で、これが長屋住まいで、それが主流でした。九尺二間の裏長屋というのは家賃銀五匁、銭に換算すると五百文、腕のいい大工さんが一日働くともらえる賃金、一日働きに出ると一か月の家賃が出る。
 20何軒の家々には家族もいるから100人近くの人が住んでいたんでしょう。共同の井戸が一か所、ゴミため、四角い共同トイレが三か所。一日一人ですごすことはあり得ませんから、共同ですので人との付き合いを前提にした暮らしをしていた。相手を尊重するという姿勢がないと、こういう場所では生きていけません。お互いの助け合いの精神がなければやっていけない。そういう雰囲気の長屋共同体でした。そして北のはずれ、東北が鬼門でお稲荷さんがあります。江戸は三百坪ぐらいの敷地があると必ずお稲荷さんを祀った。「江戸名物、伊勢谷・稲荷に犬の糞」という川柳があります。これが人々の心の支えで、おがんで掃除をして精神的支柱、共通の拠り所にしていました。
 外国人が幕末に江戸に来てびっくりしています。こんな清潔な都市を見たことがないと。屎尿処理が出来ていた。練馬大根をつくる農家や小松村の百姓が肥料として持っていってくれる。大切な資源だから金を払って買ってくれるんです。16、17世紀のパリの町はきたなかった。捨てる所はあるんですが、町のスミだったので、宵闇に乗じて「お水に注意!」と三回呼んで捨てるものだから道路は臭かった。この点であまりにうまくいきすぎたので、日本はインフラが遅れたわけです。長屋の住民の知恵というものが生かされれば、今の殺伐とした世の中も少しはよくなるんじゃないでしょうか。下町をもういちどよびおこすとしたら、多分そういう心の問題があるだろうと思います。
 (講演は区商連50周年、工団連40周年の記念行事で行なわれた。竹内氏は人形町のタイ焼きで知られる柳屋に生まれ、東京教育大学に学び江戸学の大家として知られる。江戸東京博物館の館長、江戸開府四百年の中央区実行委員会の会長をつとめている。)