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江戸東京博物館で「大江戸八百八町」が開かれ、ベルリンの東洋美術館から「熙代勝覧」という絵巻ものを借りて展示している。日本橋から今川橋まで7,800メートルを12メートル30センチの絵巻に描いています。そこに描かれた店の数は90軒、路上を賑わしている人は1290人。魚河岸は雑踏で人が動けない状況で、この絵巻を私が勝手に名前をつけて、「日本橋繁盛絵巻」と呼んでいます。江戸の町は通りをはさんで両側にあり、入口と出口に木戸があって一街区となっています。むこうとこっちで両側町と言います。室町一丁目の通りは14メートルの幅があった。もうちょっと広かったけど、皆んな軒下に荷物を出すのでその幅になった。今は残念ながら人が歩く道じゃなくて、車が走る道になっちゃった。10メートルの幅があっても簡単に渡れない。そして今は区画整理によって向こう側は二丁目になってしまった。江戸時代は道をはさんで同じ町内でした。「むこう三軒両隣」が江戸時代は一つのコア(核)でした。これが今は「むこう三軒」はちがう町内ですから。一つのコアが連続して出来たのが江戸の町です。こうなると、お早ようと言えば向うからもお早よう、道路が汚れていれば、お互いにきれいにする。お互いの木戸が閉まったら自分の家と庭ですから、おのずとそこに人情が通い合います。両側の町の人が仲がいいから、その真ん中を歩く人も気分がいいですよ。雰囲気のただよい方がちがいますから。この両側町のあり方というもの、これからの生活設計には考えないといけないと思いますね。車が走る所と人が歩く所、その両方を考えるよりは、明確に分けることの方がよいようです。最近、国土交通省もそのように考えているようです。
江戸の町の出来方の要素でもうひとつ大事なものが長屋です。江戸時代の長屋はほんとによく出来ているんです。(根津門前町の長屋絵図を示しながら)大家さんはいちばん奥の大きな所に住んで、27軒の借家の管理を地主からまかされている。表通りは2階家で商売をやっていて中流より上。江戸時代はお金もちも土地を持とうとしなかったんです。むしろ借家のほうが有利に働いた。税金がありませんし、営業税というのもほんのわずか。ましてや10年にいっぺん火事があるから、そのたびに苦労する持ち家の人より借家のほうがいい。50万60万の商人のうち70%は借家人。ということは借家人イコール貧乏人という図式ではなかった。一般庶民は中流で、これが長屋住まいで、それが主流でした。九尺二間の裏長屋というのは家賃銀五匁、銭に換算すると五百文、腕のいい大工さんが一日働くともらえる賃金、一日働きに出ると一か月の家賃が出る。
20何軒の家々には家族もいるから100人近くの人が住んでいたんでしょう。共同の井戸が一か所、ゴミため、四角い共同トイレが三か所。一日一人ですごすことはあり得ませんから、共同ですので人との付き合いを前提にした暮らしをしていた。相手を尊重するという姿勢がないと、こういう場所では生きていけません。お互いの助け合いの精神がなければやっていけない。そういう雰囲気の長屋共同体でした。そして北のはずれ、東北が鬼門でお稲荷さんがあります。江戸は三百坪ぐらいの敷地があると必ずお稲荷さんを祀った。「江戸名物、伊勢谷・稲荷に犬の糞」という川柳があります。これが人々の心の支えで、おがんで掃除をして精神的支柱、共通の拠り所にしていました。
外国人が幕末に江戸に来てびっくりしています。こんな清潔な都市を見たことがないと。屎尿処理が出来ていた。練馬大根をつくる農家や小松村の百姓が肥料として持っていってくれる。大切な資源だから金を払って買ってくれるんです。16、17世紀のパリの町はきたなかった。捨てる所はあるんですが、町のスミだったので、宵闇に乗じて「お水に注意!」と三回呼んで捨てるものだから道路は臭かった。この点であまりにうまくいきすぎたので、日本はインフラが遅れたわけです。長屋の住民の知恵というものが生かされれば、今の殺伐とした世の中も少しはよくなるんじゃないでしょうか。下町をもういちどよびおこすとしたら、多分そういう心の問題があるだろうと思います。
(講演は区商連50周年、工団連40周年の記念行事で行なわれた。竹内氏は人形町のタイ焼きで知られる柳屋に生まれ、東京教育大学に学び江戸学の大家として知られる。江戸東京博物館の館長、江戸開府四百年の中央区実行委員会の会長をつとめている。) |
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