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■ 3月12日発行  このページの先頭へ
「新富座こども歌舞伎」の会
来年の節分に「三人吉座」
 京橋地域の掲示板に貼られた「新富座こども歌舞伎」のポスターが町の話題を集めている。
 「歌舞伎をやってみたい子集まれ!」と、小学生の出演者を募集している。そして、来年の2月3日(日)の節分には鉄砲洲稲荷神社の神楽殿で『三人吉三』を演ずる目標を掲げている。
 この企画を発案した方は、新富町に住む諸河文子(もろかわ・ふみこ)さん。舞踊家で芸名は藤間文園。各種賞を受けていて千代田区猿楽町の稽古所で指導している。昨年話題をまいた「八丁堀音頭」の振りつけをした。
 生れは千代田区。「地方では伝統ある歌舞伎や芸能を年中行事にしているのを見るたびに、うらやましい」と思い「老若男女が楽しめる芝居」がかねてからの夢だった。そこで結ばれる人と人の和は、地域の核になっていくことを幼い時からの経験知で確信できるという。今日、都心に人が増え、道行く子どもが多くなった今こそ「チャンスだと思いまして」
 新富座の名称は今の京橋税務署あたりにあった芝居小屋をさしていることはいうまでもない。
 稽古開始は7月22日(日)の午前中で、11月10日までの毎日曜。夏休みには集中稽古も。場所は京橋プラザか新富区民館。指導者は前進座の黒川矢之輔、黒御簾塾の杵屋佐之忠。月謝は月3千円。対象は京橋地域の小学生。
 問合せ申込み=新富1-17-10、諸河文子宛、電話03-3551-2893、FAX03-3551-2910、
E-mail:fumi@ag.wakwak.com
 なお、諸河さんの夫(諸河久氏)は鉄道電車のマニアで電車の撮影で広く知られていて『都電系統案内』などの著作がある。

東京一の大劇場「新富座」の変遷
 京橋税務署のあたりに明治時代の前半、「東京一の大劇場で鳴らした新富座」があったと、亡くなった川崎房五郎氏が書いている。
 区が発刊した『中央区の文化財』は次のように紹介。
 新富座の前身である守田(森田)座は、万治3年(1660)に許可を得て、寛文元年(1661)に木挽町5丁目に開場し、桐大蔵座の桐尾上女芝居を出したのが、その始まりといわれている。…明治5年(1872)に新富町に移転、明治八年に新富座と改称した。維新の混乱で娯楽を欲した市民に人気を博し、華々しい開場であった。
 森田座の移転は「座元守田勘弥は、いち早く中心部への移転進出を考え、築地の新島原遊廊が、不振で休業解散することになった跡へ劇場を建て、かつて演劇の中心部であった区内へ再帰し興行することになったのです」と故川崎氏は紹介する。
 明治9年11月29日の大火で類焼するが、11年に再建。黒白のなまこ壁建築、その上に絵看板をならべ、江戸の大劇場の再現と大評判だったという。12年7月にはグラント将軍が観劇にみえ、それが東京の名物となる。上流階級の社交場としても利用され、文明開化の時代を代表する近代的な劇場として確固たる地位を築いた。
 ところが新しい演劇の波にのって明治22年11月に歌舞伎座が開場。
 新富座は2階建400坪の広さで定員1,600名、立見は100名収容、始めは座付茶屋が40余軒もあったほど賑わったが、歌舞伎座ができたのちは不振で松竹の手に移り、関東大震災で焼失した。
 
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