1月25日、95歳の大住生を遂げた三田政吉氏の葬儀は28日、明治座、明治座グループ、濱田家により築地本願寺で営まれ、参列者は5千人に及び、境内は人で埋まった。
葬儀委員長をつとめた東京都知事の石原慎太郎氏は挨拶で、演劇界、料飲業界、政治の世界で果たしてきた足跡をたどるとともに、日本橋で後援会を作っていただいたとして、その人徳に崇敬の念を明らかにした。喪主で長男の芳裕(よしひろ)氏は「父はこの世の中への所作として誠実と謙虚と親切を大切にしてきました。このことを私たちも守り抜いてまいります」と語り参列者に感銘を与えた。
葬儀が終って、式場の本願寺を出た棺は町屋へ直行せずに明治座へ。玄関前には、「渡る世間は鬼ばかり」の出演者が並んで手を合わせた。さらに甘酒横丁から人形町通りに出ると商店街の理事がそろいの伴てんで頭を下げ、歩道に多くの人が別れを惜しんでいた。
三田政吉(みた・まさきち)氏は明治43年12月12日、料亭「濱田家」の五男として日本橋区青物町(現日本橋1丁目)に生まれる。昭和3年、慶応義塾商工部を卒業。大森で料亭を営んだこともある。終戦後の昭和22年、濱田家代表取締役。東京大空襲で焼失した明治座を新田新作氏、三輪善兵衛氏、川口松太郎氏らと協力して再建。昭和32年に漏電により焼失した明治座を再建し、昭和42年に代表取締役社長に就任。劇場内の売店を充実させ、おいしい食事を提供するなど画期的な試みをして脚光をあびた。49年、日本演劇興行会の会長に。
飲食業界を税制面で改善するとともに業界のまとめ後となる。こうした努力が自民党の各種団体会長の座に立ち、信望を担う。
地元では町会長、中央区監査委員を歴任。区議主導にあった自民党に対して日本橋会を発足させ、これがのちの民間主導型の支部に成長。また石島三郎都議の協力で地下鉄誘致にも努力した。のちに大橋都議、立石都議も誕生。また民間出身の首長として矢田区長についても産みの親として知られる。
明治座を3度にわたって再建したことで、その名を不動のものとした。昭和59年、民間人としては珍しい勲二等瑞宝章に輝く。平成11年に名誉都民に、中央区名誉区民に顕彰される。
日本橋地域ルネッサンス100年計画委員会の会長として再開発にも尽力し、同時に若い人たちの起用を率先して行った。日本橋をこよなく愛した財界人であり、文化人でもあった。
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