亀島橋を新川に向かって渡る右側の橋詰に、にぎやかな碑が建立されている。
まず、銀座の四世柳。これは昨年亡くなった勝又康雄氏の寄贈。さらに芭蕉句碑。元禄6年(1693)に八丁堀にて詠んだもの。「菊の花 咲くや石屋の 石の間」芭蕉50歳の作品という。
さらに東洲斎写楽が八丁堀に住んでいたとの考証も示されている。この説は八丁堀の元町会長、山下登さんの説でもあり、柳も山下さんと親しかった勝又さんから寄贈されたもの。
写真については「江戸時代の浮世絵師。天明から寛政年間頃の人」として次のように記されている。
1794年(寛政5年)5月から翌95年の正月までの10ヶ月間で、役者絵、相撲絵の版画約140点を製作した。
写楽は、それまでの常識を覆す雲母揩りの豪華な背景と、リアルな表情と容態を描き、日本を代表する浮世絵師の1人として世界に知られている。
写楽の生涯や正体は不明な点が遠かったが、幕末の考証者、斎藤月琴は「増稀浮世絵類考」(1844年)で「写楽は江戸八丁堀に住む阿波藩の能役者の斎藤十郎兵衛」と記載した。
さらに、1997年(平成9年)埼玉県越谷市の法光寺に残る過去帳に「江戸八丁堀地蔵橋に済み、阿波藩に仕える斎藤十郎兵衛が1820年(文政3年)3月7日に58歳で死亡した」との記述が発見され、「写楽と斎藤十郎兵衛が同一人物」で、ここ八丁堀に居住していたとの説が注目されるようになってきた。
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