都議選が今月の23日に火ぶたが切られ、7月3日の投票めざして熱戦が展開される。今回は7期目をめざす自民党のベテラン立石現職に抗して民主党が初名のりをあげる。中山代議士の秘書、梶川氏が初めての選挙に挑戦。5月27日の民主党演説会には300人をこす支援者を集めて注目されている。中央区の有権者は2日現在で81,144人と、前回より1万5千人近くも増えている。人口が増えても必ずしも投票率上昇とならないことは、2年前の区議選が50%を割ったことでも明らか。しかし国政選挙になると別で、衆院選では新住民の投票が増えた分、民主党の票が伸びている。制度としての二大政党が定着してきていることは事実で、このあたりがどのように票として現れるのか、各陣営ともに読めないのが実情。温故知新過去の都議選を振り返って、新しい展開をのぞんでみた。
有権者が8万人超え制度は2大政党化へ
中央区の都議会議員が定数2が1名になったのは昭和60年からで、その時の有権者は6万6千人だった。これが選挙ごとに減って、平成5年で6万人を割り5万8,275人、平成九年も5万8,276人と横ばいが続き、前回は6万人を6,484人も上回った。そして今回は6月2日現在で前回より1万5千人も増えて8万人の大台にのせるに至った。
ちなみに刷新都政の叫ばれていた昭和40年には自民党2議席の一角が崩れて青木幸太郎氏(青木幸子区議の父)が初議席を得るが、その時の中央区の有権者は9万1,000人をこえていた。
且つて中央区は京橋区と日本橋区に分かれていた歴史的背景もあって、自民党が矢田陣営と石島陣営とに分け合ってきた。これを分断させる作用に動いたのが公明党の恩田保夫氏だった。区議から転じて「魚河岸の若大将」のキャッチフレーズでさわやかに登場し、人気を博した。母体の創価学会だけでなく浮動票も集め1万の大台にのせた。
そして2期目で矢田氏に代り大橋氏、さらに3期目は大橋氏に代り立石氏と議席を並べる。1人区となった昭和60年には立石氏との一騎打ちに敗れはしたものの投票率は70%近い69.09%にまでフィーバーした。
立石氏が登場してくる背景には、再生自民党の母体となった日本橋の動きがある。自民党支部とは別に日本橋は独自の会合をもち、講演会を開いたりしていた。これが蓄積されていって自民党は区議だけでなく、民間人をまきこんで開かれた党へと脱皮していく。大橋氏が都議候補になったのは対する六角氏との公開投票による、そんな型破りな方式も採用された。
このように中央区の選挙は基本的には自民党の事情に左右されて推移してきた。
国の選挙制度が政治資金を含めて二大政党化していくのに、末端の地方自治体の首長や議員にはその制度改革が及ばず二分化の傾向にある。都議選は、その中間にあるために有権者の関心もいまひとつの構造になっている。また、民主党が中央区で候補を出したのも同党が二大政党で生き抜いていくための選択であって、そのことが有権者に都議選を分かりにくくさせているようでもある。
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