江戸歌舞伎のはじまりは、寛永元年(1624)に初代中村(猿若)勘三郎が中橋南地(現在の京橋付近)に櫓を上げ「猿若座」をおこしたことに始まる。猿若座はその後「中村座」と改称されるが、発祥の地にちなんで旧京橋の橋台地(京橋314)に、昭和32年7月、「江戸歌舞伎発祥の地」の記念碑が建立された。
今年は江戸歌舞伎発祥から380年にあたり、さらに、中村勘九郎がその先駆者である中村勘三郎の名称を18代目として襲名する機会と重なることから、発祥之地碑がリニューアルされ、その顕彰式が2月27日午前11時半から開催された。
松竹の大谷副会長がいきさつを説明したのち、中村勘九郎丈が挨拶。「私が2歳のとき、この地に父につれてこれられ、その説明の長かったことをよく覚えています」さらに「私が勘九郎として皆さんに挨拶するのはこれが最後になります」と、直後に予定していた「襲名興行顔寄せ」に始まる18代目勘三郎への思いも語った。また多くのファンも集まったことから「息子の不祥事ではご迷惑をおかけしました」と頭を下げ親心も示して感銘を与えた。当日は京橋一の部連合町会の井上博夫副会長らも顔を見せて、記念スナップにおさまった。セレモニー終了後には記念の甘酒がふるまわれた。
なお、当日、歌舞伎座で行われた「顔寄せ」には、中村雀右衛門、中村芝翫、中村富十郎、松本幸四郎、片岡仁左衛門、坂東玉三郎らが列席して、三日に始まる「襲名披露興行」の火ぶたを切った。
中橋南地には10年
猿若座が芝居小屋を建てたのは、家康、秀忠が江戸の市街地をつくり出して間もないころのこと。間口十間、中央に木戸があり、そのわきに勘定場、木戸の屋根には大鼓櫓をあげ、正面には紺に白ぬきで猿若座の紋、左右にはった幕には猿若勘三郎と染め出し屋根は柿葺(こけら)だったという。小屋の中は中央に三間四方の放れ舞台の上に破風を作り、正面の板壁に松を描き、下手に三間の橋掛り(花道の前身)を設けた。つまり舞台には別の屋根があって、そこで芝居をする形で、今とは違っていた。当時の竹矢来むしろ張りの小屋に比べると豪華なものだった。
広場をともなう賑やかさをかもしたもののお城に近い理由で興行物は全て廃止となり寛永9年(1632)には堺町に移され中村座となった。さらに寛永10年には木挽町に山村座、明暦大火後に森田座ができ、葺屋町の市村座とあわせ江戸四座とよばれるようになった。
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