2.日本橋をめぐる歴史
江戸時代の日本橋は、日本中から様々な積荷が集まっていたところでした。また、魚河岸に集められたのは、魚だけでなく米俵や蒔等もあったそうです。多くの人々が集まることにより、レジャー施設や情報センターのようなものも自然発生的に存在したようです。
現在の日本橋南側にある交番の辺りには「高札場」と呼ばれる幕府の広報センターの役割を持つ施設がありました。日本橋の治安を司る施設が当時も同じ場所に存在していたのは興味深いところです。
因みに、現在の新日本橋駅付近には、オランダ商館長一行の定宿の「長崎屋」があり、日本人は比較的自由に出入りできたと言われています。当時のヨーロッパ人から知識を吸収し、広めていった人も多く、日本橋は経済・流通のみならず知識・情報の発信地としての役割もあったようです。日本橋から長崎屋付近までは多種多様な店舗があり、文化の中心地として栄えていました。明治維新後、西洋文化の流入によって日本橋は「洋式木橋」と呼ばれるフラットな形になり、鉄道馬車の往来が可能になりました。同時に、日本橋南側には、電信局や多くの企業が集まり始めました。
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