東京中央ネットロゴ NPO(特定非営利活動)法人東京中央ネット 東京中央ネットは中央区のポータルサイトです。
東京中央ビジネスナビ参加企業について
検索する
サイトマップ お問い合わせ
HOME > 中央区広場 > 中央区 OLの声
ページタイトル:中央区OLの声
 毎月登場する、中央区で働く、住んでいるOLの方にテーマを決めてもらいます。
  毎月の出演は匿名も可能です。希望されるOLの方はこちらまでお問い合わせください。

今月のテーマ:日本橋とその周辺
VOL.25
過去と現在が交差する日本橋を、日本橋初心者の私なりにご紹介したいと思います。
大垣ひろこさんのプロフィール
日本橋勤務は初めてですが、4ヶ月が経ちました。
協力日本橋OLクラブ

1.日本橋の風景
半蔵門線三越前駅の出口階段を上がると真っ先に目に飛び込んでくるのは、高架高速道路の側面に書かれた「日本橋」という文字です。左手には魚河岸の碑、交差点向こう側には道路元標があり「ここは、正しくお江戸の中心地」といった感があります。

現在の日本橋は、明治44年に石造二連アーチの道路橋として造られました。関東大震災や第二次世界大戦を生き残ってきた橋です。明治・大正の文化が残っていると思います。

   

2.日本橋をめぐる歴史
 
江戸時代の日本橋は、日本中から様々な積荷が集まっていたところでした。また、魚河岸に集められたのは、魚だけでなく米俵や蒔等もあったそうです。多くの人々が集まることにより、レジャー施設や情報センターのようなものも自然発生的に存在したようです。
現在の日本橋南側にある交番の辺りには「高札場」と呼ばれる幕府の広報センターの役割を持つ施設がありました。日本橋の治安を司る施設が当時も同じ場所に存在していたのは興味深いところです。
因みに、現在の新日本橋駅付近には、オランダ商館長一行の定宿の「長崎屋」があり、日本人は比較的自由に出入りできたと言われています。当時のヨーロッパ人から知識を吸収し、広めていった人も多く、日本橋は経済・流通のみならず知識・情報の発信地としての役割もあったようです。日本橋から長崎屋付近までは多種多様な店舗があり、文化の中心地として栄えていました。明治維新後、西洋文化の流入によって日本橋は「洋式木橋」と呼ばれるフラットな形になり、鉄道馬車の往来が可能になりました。同時に、日本橋南側には、電信局や多くの企業が集まり始めました。

   
 江戸の町には大火が多かったことを反映し、日本橋の橋は耐火性の強い石造りが計画され、現在の橋が架けられました。日本橋は全国道路の原点であり、それにふさわしいデザインにする、という政府の理念が橋の設計に生かされました。それは、周辺の建物に調和し、且つ歴史的意義も尊重する、という国の威信をかけた大事業でした。
  橋の欄干には擬宝珠、東京市(当時)の威厳を示す唐獅子、中国故事の「麒麟現れれば聖人生まる」にちなんだ麒麟があり、橋灯は洋式ランプという和洋折衷のデザインになりました。専門家から見るとチグハグなデザイン構成らしいのですが、私には、次のように感じられるのです。西洋文化が洪水のように流入した明治時代に、日本人が育んできた文化と溶け合いながら、独特の統一性を生み出そうとしているように見えるのです。
  震災と戦争を耐え抜いてきた日本橋とその風景は、オリンピック景気による高架高速道路の建設という大きな変化を迎えます。橋の真ん中辺りで空を見上げると、高速道路の側面と日本橋の高い柱がいまにも触れ合いそうになっています。景観については議論されていますが、もっと近くで観察すると、日本橋の装飾そのものの危機を感じます。


3.日本橋の土地の持つエネルギー
 江戸時代から現在まで日本橋川の流れに沿って物流が行われていると言えます。江戸時代は舟でしたが、今ではトラック等の車です。渋滞情報がいつも流れているのも、興味深いところです。川と高架高速道路かの違いはありますが、日本橋にはいつも人・物・カネが流れているように感じられます。
 また、日本橋には文化の継承を感じずにはいられません。明治維新後に登場した丸の内、戦後発展した霞が関とは、異なった、日本橋独特の経済発展を感じます。江戸時代から続く老舗の多さだからでしょうか?それだけではないと思います。この町から感じられる息吹、そのようなものを感じます。

  日本橋とその周辺の歴史的建築物の前で目を瞑ってみてください。きっと江戸の空気を感じ取ることが出来ると思います。



2006年6月掲載記事  
※内容は、掲載当時のものとなります  
copyright2004 Tokyochuo.net All Rights Reserved.
東京中央ネットについて 東京中央ビジネスナビについて このサイトについて プライバシーポリシー