さらに翌年、現在の8丁目に2坪ほどの店を借りて洋装店「ノーブルパール」を開店しました。ここはかつて「よしお川」という置屋で、服部さんという方がワイシャツ製造の商売をされていました。なかなか手に入りにくかったポプリンの反物を調達し安く卸してあげたりしたご縁で、通りに面した半分のスペースを借りることになりました。その後貿易に手を出し失敗するなど、紆余曲折はありましたが、昭和37年には服部さんから借家権を譲り受け、美容院も始めました。
さらに昭和48年、土地の権利も得たのち現在の富士ビルを建て、1階を洋装店、6階をそのアトリエとし、3階は美容院、住まいはビルの5階に移しました。職場だけではなく生活の拠点を銀座に据え、まさに「銀座の住人」となりました。以後30年間、銀座の街の音を耳にしながら、住んでいてこそ実感できる町の良さ、悪さを知りました。今では、銀座の街は私の永住の地であり、私の一部と言っても過言ではないでしょう。銀座には、生まれ育った横浜にはない江戸期以来の営々たる歴史があります。それが、私にとっての最大の魅力です。
銀座通りの並木に柳が植え始められたのは明治10年頃のこと、松や桜に比べ強い生命力があり、明治17年には「銀座の街路樹は柳」に統一されました。しかし大正10年、銀座連合会の反対運動にもかかわらず、京橋・新橋間の車道拡張のためという理由で柳は撤去されます。さらに、その直後の関東大震災(大正12年)で銀座は焼失しました。
昭和初期、街の復興とともに「東京行進曲」の大流行もあり、朝日新聞社の贈呈により京橋・新橋間、数寄屋橋・銀座大通りに300本の柳が植えられます。昭和7年、柳復興祭が開催されましたが、昭和20年、東京大空襲で再び銀座は焼失、柳も姿を消してしまいました。戦後、街の復興とともに街路樹も徐々に整備され、昭和29年銀座8丁目に「銀座柳の碑」が建てられました。昭和30年の記録では、銀座の街路樹は1234本(うち柳は343本)あります。しかしようやく復活しはじめた「銀座の柳」は再三の受難を受けます。
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