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日本随一の繁華街、中央区・銀座の歴史は、江戸時代この地に「銀座」銀貨鋳造所が置かれたことから始まりました。明治時代になり、新橋横浜間の鉄道が開通すると、新橋の停車場から居留地のあった築地、商業地日本橋を繋ぐ要所として、商業の新天地、さらには外国に対する日本の街並みのモデルケースとして異国風の様相を整えつつ発展しました。町のほとんどが灰塵に帰した江戸末期の大火、大正期の関東大震災、昭和の戦禍にもめげず、不死鳥のごとく復興。それぞれの時代で「銀座ならでは・・・」の特色を持ち続け、今なお多くの人々に愛され親しまれています。創業100年の老舗を守りつつ「銀座はわが町」を自認する内藤さんに、街の移り変わりと思い出、町会や通り会の成り立ち、街の将来像など、また、江戸開府400年に寄せる想いを語っていただきました。 |
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「菊水」を創業したのは、私の祖母である内藤志んです。横浜の伊勢崎町にあった鶴屋呉服店の古屋徳兵衛の長女で、たばこが専売制になる1年ほど前の明治36年に、煉瓦街の一角にあった店舗を居抜きで買い取り、内外のたばこ小売店として開業しました。それ以前は佐賀たばこの元売り店だったようです。祖父彦一は、明治22年に鶴屋と松屋とが合併してできた松屋呉服店(現在の松屋百貨店の前身)で働いていました。 大正12年にコンクリートの3階建てに建て替えられた店は、わずか2カ月後の関東大震災に遭い、躯体だけを残してすっかり焼けてしまいました。内装をやり直して使用していましたが、空襲で再び焼けてしまいました。再度修復し、現在の建物になる20年ぐらい前まで使っていました。昭和46年ごろの写真がありますが、大正から昭和にかけての非常にモダンな建物でした。 |