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略歴 |
昭和12年7月 2代目西川鯉三郎の長女として、名古屋で生まれる。 |
昭和15年 |
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3歳で父の子役として初舞台「女うつぼ猿」 |
昭和28年 |
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名古屋聖霊女学院中等部卒業 |
昭和31年 |
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西川流苗字内師範を許され、川端康成氏の命名により西川左近を名乗る。東京築地の稽古場にて、父の代稽古として門弟の指導にあたる。 |
昭和32年 |
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「西川流雛菊会」を主宰、第1回公演を開催(現在37回開催) |
昭和48年 |
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第1回リサイタル「西川左近の会」を国立大劇場にて開催。 |
昭和60年 |
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名古屋西川流より独立し西川流鯉風派を創立、家元となる。 |
昭和61年 |
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父の遺言により「鯉風会」 を継承。 |
昭和63年 |
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日本舞踊協会参与 |
平成5年 |
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「西川鯉三郎作舞・振付年譜」を編纂・発表。名古屋演劇ペンク |
ラブ賞(昭和58年)、舞踊批評家協会賞(2000年度)を受賞、NHK「芸術劇場」「芸能花舞台」などTV出演も多数。
趣味は旅行、観劇(ミュージカル、オペラなど)、パソコン、オーディオ。 |
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「今月の顔」は、日本舞踊・西川流鯉風派家元、西川左近さんです。昭和の名人と讃えられた父君(2代目西川鯉三郎氏)の亡き後、「鯉風の芸と心」の継承を目的に鯉風派を創立、初代家元として芸の研鑽はもとより、後進の指導育成に尽くしてこられました。築地、新橋、銀座界隈の思い出をはじめ、デジタルカメラとパソコンを駆使して振り帳の制作に取り組む近況など、踊りひと筋の中にも、旺盛な好奇心を垣間見せていただきました。 |
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西川流鯉風派の創立と現在にいたる経緯、特徴をお聞かせ下さい。 |
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父西川鯉三郎は、幼い頃から6代目尾上菊五郎の内弟子になり歌舞伎役者として活躍しておりましたが、師の勧めで昭和16年、西川流(名古屋)の家元、2代目西川鯉三郎を襲名し、以来40余年舞踊の道に専念しました。 日本舞踊に文学性を取り入れ、高い芸術性をもたせた傑作を数多く創作、「舞踊劇」というジャンルを確立し、芸一筋「昭和の名人」とも言われた人でした。私はその父のもとで踊りを始め、3歳での初舞台以来、数々の舞台をともにつとめ、10代になると東京築地のお稽古場で代稽古もしておりました。昭和58年に父が亡くなり、鯉三郎の芸風と踊りに対する精神を継承するべく、故人の友人であった中村勘三郎氏や尾上松緑氏の賛同と協力をいただき、昭和60年、西川流より独立して西川流鯉風派を創流いたしました。「鯉風派」とは、鯉三郎が主宰しておりました東京の舞踊公演会「鯉風会」から名付けたものです。鯉三郎の芸風を、五月晴れの空に堂々と泳ぐ鯉にたとえ、出光興産の創業者出光佐三氏が命名して下さった名称です。
この鯉風会で先代は、川端康成先生の「船遊女」、舟橋聖一先生の「三嶋菊」、平岩弓枝先生の「おちゃちゃ御料人」など、数々の創作舞踊劇を発表してきました。昭和55年から中断されていたこの「鯉風会舞踊公演」を復活させるのも、私の務めと心得て、昭和61年「西川鯉三郎追善公演」として開催し、現在は31回を数えています。 |
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お父様は「昭和の名人」と謳われた方ですが、どのような存在だったのでしょうか。 |
3歳で初舞台を踏み、以来踊りの道を歩いてまいりましたので、鯉三郎は父であると同時に、踊りの師匠でした。芸に関して、口で厳しく叱るということは一切ありませんでしたが、それは“自分の姿を見て進め”ということでしょうか、そのぶん非常に厳しい師でもありました。創ること、踊ること、教えること―、この3者のバランス感覚に優れていた父・西川鯉三郎を目標に、少しでも近づくよう修業し努力していくことが、これまでも、またこれからも私自身の進むべき道と思っております。 |
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家元になられ、とくに力を注いでこられたこと、また代々受け継がれている教えや教訓には、どのようなものがございますか。 |
鯉風派を創流しておよそ20年、門弟の方々とともに”和の心“をもって、西川鯉三郎の流儀継承に精魂をかたむけてまいりました。なによりも「踊りはみんなのもの」というのが父の口癖でした。多くの創作した舞踊劇を残しておりますが、誰が見てもわかりやすいもの、という信念がその根底にあったと思います。父の作品を踊れば踊るほど、その心が分かってまいります。また、大きな舞台でも小さな発表会でも、踊る側の意識は同じ、本物の芸は雑念を取り払ったところにある、ということも共に舞台に立ちながら身近で教わったことのひとつです。 |
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お生まれは名古屋と伺っておりますが、中央区との関わりはいつ頃からでしょうか。 |
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小学校の頃は父に連れられて東京に来ておりました。新橋演舞場から築地に続く通りには川が流れ、川沿いのお家の軒先には魚の干物がほしてあり、のどかな風景を今もはっきり覚えています。新橋のお茶屋さんでお稽古がある時には、子供は解放されるので、銀座通りの夜店を巡ったり致しました。ピンクの缶に入ったチョコレートや、読めないけれど横文字の雑誌など、珍しく華やかで、子供心にワクワクするようなものがたくさん並んでいて、それは楽しい思いをしました。中学生になると、金曜ごとにひとりで夜行に乗り東京のお稽古場に通うという、本当に踊りが好きな子供だったようです。中学校卒業後、こちらに本拠を移して以来、仕事場と住まいは築地です。築地のお稽古場はその頃(昭和28年)に出来たと記憶しています。父は新橋、赤坂、柳橋などの花柳界の方たちにお稽古をしておりましたので、どこにも属さず便利な場所ということで、この築地に決めたそうです。現在の建物は、昭和46年に建て替えたものですが、稽古場の舞台の床板だけは、当初のものを使っています。 |
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中央区に永くお住まいですが、中央区の素晴らしさなど印象をお聞かせ下さい。 |
「お江戸日本橋」という言葉は、踊りの歌詞によく出てきます。日本舞踊そのものが江戸とはきっても切れないご縁がありますね。歌舞伎座、演舞場という大きな劇場が近いということは、幸せなことだと思っています。それに、銀座や日本橋には老舗が多いことも気に入ってるところです。子供の頃は、日本橋の松竹梅(松は榮太樓總本鋪、竹は虎屋、梅は山本海苔)にお使いを頼まれたりしました。お稽古の合間にはよく銀座から日本橋にかけて歩きます。
また、銀座の柳・・・と言われますが、最近は築地界隈の方が、柳は多くなりました。築地から聖路加の周辺は、桜のきれいなところがたくさんあり、お散歩が楽しめます。 |
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デジタル技術を駆使した振り帳やホームページの制作をご紹介下さい。 |
3年ぐらい前から趣味の範囲ではありますが、パソコンを初め、仕事に少しずつ役立てています。振り帳というのは流儀にとってはたいへん重要なもので、子供の頃は、言葉で書き連ねていました。その後は、人形の絵に言葉を添えて見やすいものにしていました。現在では、デジタルカメラと言う便利なものがありますので、踊りを静止画像で撮り、ファイルを貼り付け、音を入れ、さらに言葉の説明書きを加えると、20分の踊りを100枚ほどの静止画像に分割して制作できます。まだ数は多くありませんが、暇を見つけて、作り貯めて行きたいと思っております。振り帳の他にも、衣装の記録、道具帳などもデジタルデータとして保存を始めています。
ホームページは、広報部や若いお弟子さんたちに手伝ってもらい、1年ほど前に立ち上げました。年月がたつに連れ、人の記憶はどうしても薄れてしまいます。鯉三郎の足跡を一つの記録として残し、日本舞踊の新しい情報を発信し、さらには全国各地にいる鯉風派のお師匠さんの紹介など、サイトを充実させて行きたいと思っております。ぜひご覧になってください。
HPアドレスはhttp://www005.upp.so-net.ne.jp/rifuu/top.html |
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これまでの人生で、心に残っている出来事、出会いなどがございましたら、お聞かせ下さい。 |
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ひとつは父の亡くなる前後のことです。地方での仕事が1週間ほど入っており、心引かれながらも出かけました。最後の南紀勝浦での公演で、「鷺娘」の支度をしていると、鯉三郎の印の足袋が間違って入っておりました。一瞬さっと血の気が引く思いがいたしました。履いても、履かなくても、どちらも父の死を予感させるものでした。履かずに踊ったら待っていてくれるのではないかと思い、気を取り直して翌日の公演を終え、東京に急いで戻りました。その晩、私の顔を見て、待っていてくれたかのように息を引き取りました。足袋をみると今でもその時の記憶が鮮明によみがえります。
もうひとつの思い出深いことは、「左近の会」で初めて清元の『隅田川』を踊った時のことです。父の大親友である中村勘三郎先生が、舟人の役を引き受けてくださり、前日一日だけのお稽古で本番を迎えました。終盤、狂女が舟人の肩に手を触れる場面で、勘三郎先生の御身体に触れると、それはまるで火のように熱かったのです。若輩の私のために、これほど一生懸命舞台を務めて下さっているのだと胸がいっぱいになりました。身をもって芸に対する姿勢を教えていただいたことは、終生忘れられない出来事です。 |
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最後に、中央区の次世代を担う若い人たちにメッセージをお願いいたします。 |
3歳の初舞台から今日まで、踊りの世界で様々な経験をさせていただきました。振り返ってみると、西川左近という人間を育てはぐくんでくれたのはこうした経験ではないかと思っています。その時々には気づかなくても、数々の経験と、その積み重ねが今の私の大きな財産となっています。若い方たちには、どのような事柄でも、怖がらずに経験して頂きたいと思っています。そして、何かをしようとする時には、心の片隅に先達、先輩たちの言葉を少しだけ思い起こして下さい。「昔はこうだった」という言葉は、新しい経験に挑戦するものにとって、ひとつの道しるべであり、支えになってくれるはずです。 |
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