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高津
略歴
昭和10(1935)年生まれ。
昭和33(1958)年3月   青山学院大学経済学部商学科卒業
同年4月   株式会社 伊勢丹 入社
昭和35(1960)年1月   株式会社 にんべん 入社
同年   結婚
昭和42(1967)年4月   株式会社 にんべん 取締役就任
昭和45(1970)年   長男誕生(姉2人)
同年   12代高津伊兵衛襲名
昭和46(1971)年4月   株式会社 にんべん 常務取締役就任
昭和50(1975)年4月   同社 専務取締役就任
昭和52(1977)年4月   同社 代表取締役社長就任、現在に至る
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 今回の「今月の顔」は、株式会社にんべん社長、高津伊兵衛さんです。1699(元禄12)年に初代が日本橋四日市土手蔵に創業、享保5(1720)年現在の室町に本店を構えました。そして現在12代(6代社長)として老舗を受け継ぎ、今日の隆盛へと導いてこられた高津社長の若かりし頃の想い出、「本枯鰹節」へのあくなき情熱、現在のお考えなどをお聞かせいただきました。

株式会社にんべんは、元禄12(1699)年日本橋四日市土手蔵に創業、享保5(1720)年現在の日本橋室町に本店を構えられたと伺っていますが、室町に至るまでの経緯をお話下さい。
 伊勢の高津家は雑穀商でしたが、元々は尾張の出だったと伝わっています。
 にんべんの初代高津伊兵衛は次男坊だったので、13歳のときに伊勢の四日市から新開の江戸で一旗揚げようと出てきました。最初は「油屋太郎吉」に年季奉公に入り、20歳のときに独立しました。四日市土手蔵(現・日本橋1丁目)といいまして、場外市場で戸板2〜3枚並べて鰹節や干魚類を売っていました。宝永元(1704)年に小舟町に鰹節問屋を開業。享保5(1720)年日本橋瀬戸物町(現・室町)に鰹節の小売店を出して今日に至るわけです。
 
300年を超える歴史の中、代々、新しい試みをなさってこられたと伺いましたが。
 初代の時に「現金掛け値なし」という新しい小売り方法を始めたと伝わっています。もっとも、初代だけが始めたということではなく、当時のはやりだったようです。三越さんもなさっていたようです。最初から正しい値段を付けて、お客様に提示するという、つまり、正直商売ということの象徴だったと思います。
 1830年に世界で最初の商品券を作りました。最初は銀製の物でした。商品券が銀でできていたということは、当時の鰹節はそれに相当するくらいに価値が高い物として扱われてもいたんでしょう。昔はたくさん買っておくと虫が付いたりして保存が利かなかったので、必要なときに取り替えることができるということで重宝したんだと思います。
 
代々受け継がれているお仕事の信条として『遺嘱』というものがおありだということですね。
 3代目が書き残したものです。遺言のようなものですが、その中に子孫に伝えるために記したものも書かれています。そうした祖先の教えを忘れないために、3月17日に先祖祭を行っています。戦前は、社員を集めて当主やその家族たちがお給仕をして平素の社員の務めに感謝する儀式でした。
 戦後は、時代と共に変わり、大勢での先祖祭はしませんが、当日と大晦日には初代、3代、4代の掛け軸をかけてしきたり通りの質素な食事を摂ることになっています。
 
入社された昭和35年のころの思い出はいかがでしょうか。
 当時は人がたくさん歩いており、賑やかな街でした。大通りにはビルが建っていましたが、一歩中にはいると木造の家がほとんどでした。大震災の前までは、大体お店の裏に家があってそこに住むという形が多かったと思います。大晦日でさえ、お客様がひっきりなしに買いに来られるので、掃除がはかどらない程の賑やかな状態でした。今では人が集まる劇場や寄席もなくなり、ビジネス街になってしまいました。
 私の入社当時は、仕入部鰹節倉庫係をやっていました。都電が通っており、毎日本社で作業着に着替えて千石町の倉庫に行って作業をしたものです。作業着と言っても、よれよれのジャンパーとズボンでした。6月になると鰹節に虫がついたりしないように丹念に干したりしなくてはなりません。鰹節の匂いが強烈ににおい、混雑時には都電に乗せてもらえなかったこともありました。
 
近年、力を入れておられる商品、その事業展開の経緯はどのようなものでしょうか。
 昭和39(1964)年発売の「つゆの素」は、今まで醤油などの植物性のものの中に動物性の鰹節を入れることが保存上の問題でできませんでした。つまり、醤油には酵母菌が入っており、動物性のタンパクが入ってしまうと酵母が分解してしまうのです。それを当社の技術開発で保存が可能になり、商品化ができたわけです。
 昭和44(1969)年の「かつおぶし削りフレッシュパック」は削る手間が大変だということで、以前から手頃に食べる方法はないかという要望がありました。しかし、削ったあと時間がたちますと、どうしても鰹節の風味がなくなってしまう。缶詰のように、窒素ガスを入れて酸素を排除する方法もありましたが、綺麗に中身が見える方法がありませんでした。その後特性を持ったフイルムが開発されたので、すぐに商品化したのです。最初はにんべんともあろうものがクズを売るのかと反感を買いました。しかし、原料に本枯鰹節を使っていたので、3年ほどするうちに品質の良さを理解をしていただき、それからは驚くほど売れました。
 また、電動の鰹節削り機を開発しました。鰹節は本来、削り立てのものが一番良いわけですから、是非お使いいただきたいと思います。しかし、一般消費者に使っていただくには難しい問題もまだまだありますので、いろいろと普及法を考慮中です。
 現在、鰹節のだしを使ったお総菜や煮魚をフレッシュパックや冷凍のかたちでご提供しています。まだまだ始まったばかりですが、お客様が「にんべんさんがやったことだから」といってご利用いただけることがうれしいですね。最近、商人としての気持ちを失ってしまった企業が取りざたされていますが、やはり信用が大切だと思います。
 皆様ご存じのにんべんのマークを三つくっつけて家紋のようにした、ミツカネにんべんというものがあります。お客様、創る人、商いする人の三つの信頼ができたときに商売をさせていただけるという感謝の気持ちを込めたものです。これを常に考えています。
 
地域の活性化に対して株式会社にんべんはどのようなことをなさっておられますでしょうか。
 色々な運動にご協力しています。町内会や神社の活動にも積極的に参加しております。江戸時代に大きな境内を持ち2代将軍が参拝に訪れたという有名なこの地域の福徳神社の駐車場作りのお手伝いをさせていただきました。
 
これまでの人生の中で、とくに心に残る思い出、人との出会いなどがありましたらお聞かせください。
 ラグビーとの出会いでしょうね。ラグビーは大変な運動ですから、自分の体力、限界が分かります。会社に入ってもそれが役に立っています。生活態度も不摂生しないようになりました。
 私の大学のラグビーは漢字で書くと、楽苦美だとよく言いました。最初は楽しい、しかし、壁にぶつかると苦しい、それを乗り越えて頑張れば、やめたあとでも良かったなーという美しい思い出が残るのです。
 大学を出たあとも、50歳までずっとやっていました。ユニフォームに着替えて出ていくと年を忘れてしまいますね。
 
最後に、次世代を担う若い人たちへのメッセージをひとことお願いいたします。
 ラグビーで、相手にタックルしたときに姿勢が悪いと相手にプレッシャーを与えることが出来ません。やはり物事は、姿勢の良さが大切だと思います。若い人達にも、姿勢を正して前向きに頑張ってほしいですし、日本の良き文化は残したいですね。楽しんで苦しむ、苦しみを乗り越えたときに喜びがあることを知って欲しいと思います。

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
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