東京中央ネットロゴ NPO(特定非営利活動)法人東京中央ネット 東京中央ネットは中央区のポータルサイトです。
東京中央ビジネスナビ参加企業について
HOME > 特集 > 今月の顔

 
大木
 東京、日本橋人形町に三代続く江戸っ子として生まれる。
 1967年音楽活動を始め、日本初のブルースバンドを結成すると共に数多くのアーティストをプロデュース。その後1976年渡米し、唯一東洋人ブルースシンガーとして米国労働省の認可を受け、アメリカ合衆国に永住権を持つ。全米コンサートツアーの成功と共にブラックミュージックの伝統ミシシッピーデルタブルースフェスティバルにスペシャルゲストとして迎えられるなど人種の壁を越えて輝かしい足跡を残す。
 日米のブラックミュージックの架け橋として、多大な功績を残しミスターイエローブルースと称賛される。アメリカ国内においてもプロデューサーとして多くのアーティストを育成すると共に日本のアーティスト育成にも力を注ぎ国際特別講師などの活動を行う。
 2001年NYテロ被災者追悼チャリティーコンサートに参加/2002年新作「Sweet Home Town」をエイベックス・イオからリリース。6月、人形町「水天宮凱旋コンサート」をはじめ、日本全国10カ所で来日公演を開催。
 又、動物愛護家として、日米の友好親善に貢献し、ブリードの研究と日米のセラピードッグ(治療犬)のパイオニアとして育成、普及にも力を注いでいる。
 AMS(アメリカンミュージックシステム)会長、ユナイテッド・セラピー・ジャパンinc代表、日本セラピードッグ協会設立委員会代表。
 趣味は旅。
映像がご覧になれます。
WindowsMediaPlayerをお使いの方
56k(通常回線)
ブロードバンド
RealPlayerをお使いの方
56k(通常回線)
ブロードバンド
 


 今月の「今月の顔」は、ニューヨーク在住26年、ブラックミュージックの本場アメリカで、ブルースシンガーとして活躍されているミュージシャン大木トオルさんです。日本橋人形町のお生まれ、永い海外生活の中でこだわり続けていたご自身のルーツ、故郷への想いを新作「Sweet Home Town」にたくし、6月には地元水天宮でスペシャルライブを開催。幼い頃の懐かしい思い出や、アメリカでの生活、人形町の人たちとの心温まる交流など楽しいお話を、穏やかな表情で語っていただきました。

三代続いた江戸っ子と伺っていますが、子供の頃の人形町の思い出を、お聞かせください。
 生家は現在ありませんが、水天宮のすぐ近くでした。当時人形町はエンターテイメントの町で、映画館が5〜6軒、落語の末広亭、力道山が練習しているリキパレスなどもありましたね。東華小学校に通っていましたが、学校が終わると街中駆けずり回って遊んでいました。水天宮はまだ木造の神社らしいたたずまいで、境内は格好の遊び場でした。毎月5日の縁日は楽しみのひとつで、祖母から小遣いをもらってはワクワク、ドキドキしながら、夜店の楽しさを十分に堪能していましたね。
 家の回りは黒塀の花柳界でしたので夕方になると、芸者のお姉さんたちが着飾って人力車で出かけ、三味線を手にした新内流しが行きかうなどの光景も日常的に目にしていました。下町文化というか子供心に心浮き立つ、かけがえのない楽しい日々でした。
 
その人形町を13歳で出られて、銀座の方に移られたのですが、当時の銀座の印象はいかがでしたか。
 父が事業に失敗し、家族も離散し、家を出なくてはならなくなり、銀座で料亭(卯月)をやっていた伯母の家に預けられました。住まいは赤坂でしたが、夜のきらびやかさに惹かれ、学校が終わるとよく銀座に出て来ていました。当時の銀座は、戦後アメリカナイズされはじめた最初の日本の街だったのではないでしょうか。華やかで、新しいもの、珍しいもの等なんでもありました。もちろん若くお金もない頃のことですから、手にすることは出来ませんでしたが、銀座という街に居て、目で見、肌で感じたことが、私の人生でとても大切な経験となっているような気がします。アメリカに渡り、あまり違和感なく永く暮らしてこれたのは、街の空気が銀座と共通するものがあるからじゃないかと思っています。
 30年近く前のことですが、はじめてニューヨークのマンハッタンに足を踏み入れたとき、「あー、ここはアメリカの銀座だ!」という強烈な印象を受けました。
 
19歳から、本格的な音楽活動を始められたと伺っていますが、音楽の道に進まれたきっかけ、その中でもブルースが大木さんを魅きつけた理由はなんでしょうか。
 子供の頃育ててくれた祖父は、粋な江戸っ子といいますか、三味線で清元を歌ったりする人でした。また新しもの好きで、高価でなかなか手に入らない時代に、早くからステレオを購入したり、音楽に接する機会は多かったですね。小さい頃からFEN(米国軍人向け)放送でソウルミュージックなどをよく聴いていました。その後、家の事情で人形町を離れなければならなくなり、多感な時期の心のなぐさめとして、音楽に傾注していったような気がします。何もかも失くしてしまった喪失感、ブルースはまさにそんな寂しい心をなぐさめ、元気づけてくれる音楽でした。
 16歳の頃から、アルバイトでバンドの仕事をはじめていました。高校卒業時に、教師と進路の話をしたとき、「ミュージシャンになりたい」と言ったら、ふざけたことを言ってとはり倒されました。ギターなどに熱中しているやつは"不良"、というのがその当時の一般的な認識。まだまだ音楽が市民権を得ていない頃でした。
 ドロップアウトしたなと感じましたが、押さえ込まれれば、反発するのが若さでしょう。持ち前の江戸っ子気質、負けん気が俄然頭をもたげました。私にあるのは音楽だけ、なんとしても「ミュージシャンになってやろう」と、とりつかれたように音楽にのめり込んで行きました。
 
アメリカに渡られ26年、ご苦労もおありでしたでしょうが、「ミスター・イエロー・ブルース」と称賛され、成功を収められた。厳しい世界でこれまで生き抜いてこられた大木さんの音楽家としての信条はどのようなことでしょうか。
 渡米した時は、明確な野心があったわけではありません。その前に病気で倒れ、体力も自信も失くし、真っ白な状態でした。カリフォルニアの黒人街パコイマで暮らしはじめ、いろいろな苦渋も味わいました。そこで、日本でそれまでやってきた音楽は、ちょっと格好のいい、非常に薄っぺらなものでしかなかったことを思い知らされました。人種、宗教、文化の異なる人々の集合体(United)であるアメリカという国で、本物の音楽というのは、自己を主張する強烈にタフで、唯一のものでなくてはならないと感じました。
 もうダメか、とつぶれそうになった時、「ブルースを歌って生きて行くなら、つらいことも苦しいことも、すべての心を歌に込めてごらん、魂(soul)を込めることしか方法はないんだよ」と言ったブラックファミリーのビッグママの言葉が私の大きな心の支えになっています。リアリティーのないものは切り捨て、自らの想いを込める、つらいこと苦しいこと、悲しいことならばこそ、陽気に表現する−。本物のソウルミュージックの真髄に触れ、勇気づけられました。以後、ニューヨークに移りバンドを結成し、ブルースを歌い続けてきた私の原点は、この"魂を込める"ことだと思っています。
 ミスター・イエロー・ブルースと呼ばれるようになったのは、東洋人の私がブルースを歌うキャッチフレーズのようなものですが、嬉しいことと受け止めています。人種の問題はシリアスで厳しい部分もありますが、音楽などエンターテイメントを通してなら楽に入って行ける気がします。私はまぎれもない日本人(イエロー)で、同じ東洋人の代表ともいえるでしょう。それだけ仲間たちに対する責任も感じます。コンサートの場では、イエローがブラックのソウルを歌い、ホワイトの聴衆が盛り上げる。人種、宗教、文化の違いを乗り越えて一体となれるのは、音楽の素晴らしさです。
 
昨年9月のニューヨークテロ事件のあと、新曲「Sweet Home Town」を書かれ、この6月故郷の人形町水天宮でライブを開催されましたが、現在のご心境はいかがですか。
 テロの悲惨さを目の当たりにし、私に出来ることは「ブルースを歌うこと」でした。つらい厳しい状況を受けて、音楽に向かう感情は高揚し、はじめて「故郷への想い」を書きたいと痛切に思いました。それまでも、楽しい子供時代を過ごした人形町への想いは、そこを離れざるを得なかったこともあり、ずっとこだわり続けていました。1979年から、日本にコンサートで来るたびに、夜中にそっとひとりで人形町界隈を歩いていましたね。どこかでいつも自分のルーツを確かめていたのでしょう。
 昨秋偶然人形町の幼なじみと会い、テロの話、音楽の話をするうち、「帰って来いよ!」という友の呼びかけに、私は人形町で、人形町の人たちの前で「歌いたい」と強く思いました。
 それからは、商店街のみなさんに立ち上がって戴き、思い出深い水天宮でのコンサート開催になりました。当日は、子供たちから90歳のお年寄りまで、800人を超える地元の方が集まり、私の歌を聴いてくれました。40年の空白があり、やっと人形町にもどれ、私の人生は、失ったものを取り戻す人生だったような気がします。このことは、一生の思い出となることでしょう。
 人形町というのは、私を含め日本人の持つ独特の精神(江戸っ子気質)を持っている人たちの住んでいる町だと思っています。建物や街並みは変わっても、その精神を大切に、いつまでも一番元気な町であって欲しいですね。「Sweet Home Town」の歌詞にうたったlittle rolling stone(小さな石ころ)の仲間たちは健在で、みんなそれぞれの店や、人形町の町をしっかりと支えていました。
 
これまでの人生の中で、心に残る出来事や出会いがありましたら、お聞かせください。
 音楽のほかには、犬たちとの出会いがあります。子供の頃、吃音障害があり、言葉がすらすらと出ない、厳しくつらい思いをしたこともありました。そんな時心のなぐさめになったのが、実家で飼っていた犬との触れ合いで、いつも犬と一緒にいました。
 そして、20年ほど前からアメリカで行われている動物との触れ合いによる精神治療(セラピー)に興味を持ち、情報を集め、日本に持ち帰ってその普及に務めてきました。ペット王国と言われる一方で、年間65万頭もの犬や猫が捨てられ処分されている日本の状況を、ほとんどの人たちは知らないでしょう。そんな犬たちも、きちんと訓練すればセラピードッグ(治療犬)として、十分に人の役に立つのです。ようやく最近理解されつつあり、今年(2002年)は、千葉にセラピー・ドッグの訓練施設を造ったところです。核家族化が進み、家庭崩壊など、人間同士の関係がうまく行かない難しい現代だからこそ、動物を通して人間のヒューマニティーをもう一度考えなおす時ではないかと思います。この活動は、今後のわたしのライフワークとして取り組んでいきたいと思っています。
 
最後になりましたが、これからの次代を担う若者たちに、なにかメッセージ、アドバイスがございましたらお話ください。
 感性もエネルギーもある若者たちが、文化を創り、町を創っていくのだと思います。悔いのないよう、自分の思ったことに自信を持って一心に突き進んで行ってください。大人になった私たちにできることは、その若者たちの行動を、見守り支えてあげることです。人と人との触れ合い、コミュニケーションを大切に、町や社会を盛り上げていって欲しいと思います。

※記事の組織名や肩書は掲載当時のものです。  
copyright2004 Tokyochuo.net All Rights Reserved.
東京中央ネットについて 東京中央ビジネスナビについて このサイトについて プライバシーポリシー