終戦後の昭和24(1949)年に東京に戻り、東劇の舞台を務めていました。ちょうど公演中に、歌舞伎の世界では大大先輩で雲の上の存在だった六代目尾上菊五郎様が亡くなり、お悔やみに駆けつけて末期の水を取らせて頂けたことは、今でも記憶に鮮明に残っています。翌年の昭和25(1950)年、吾妻流舞踊の家元としての襲名披露を新橋演舞場で行いました。その後昭和30年には、10ヶ月間に渡る「アズマカブキダンス」のアメリカ・ヨーロッパ公演で日本の伝統芸能を海外に進出させる初めての試みを行い、非常に勉強になりました。
歌舞伎俳優として歌舞伎座の舞台を初めて踏んだのは、昭和31(1956)年11月に尾上菊五郎劇団に入団した時でした。その後吾妻流舞踊の家元は返上し、昭和47年に五代目中村富十郎を襲名、もちろん歌舞伎座でしたが、その後も歌舞伎一筋に専念してまいりました。歌舞伎座はなんといっても私のホームグラウンドです。ここで良い役ができるということは、私にとって最高の誉れだと思っています。
歌舞伎は大変奥の深いもので、演目も多く、一生のうちに演じきれない役は無数にあります。同じ役を何度演じても、その度に新鮮な気持ちを味わい、改めて気付かされることがたくさんあります。諸先輩の素晴らしい芸をいかに吸収し、自分のものとするか。生涯の仕事として、これほど素晴らしいものはないと思っています。海外公演は、声をかけて頂く機会も多く、進んで参加してきました。海外での公演も、緊張感は日本と同様です。
かつてマッカーサー元帥の副官だったフォービアン・バワーズ氏に「外国人に理解してもらおうと、分かりやすい演技をしてはいけない。日本での時と同じように演じれば、理解は自ずと深まるもの」と助言されましたが、まさにそのとおりだと私も思います。
母と一緒にアメリカで初めて上演した「二人椀久」という作品が、その後歌舞伎の演目として定着し、平成9(1997)年のパリ公演でこれをメインに興行ができたことは、私にとって海外公演における大きな収穫となっています。