“福沢諭吉を救った機械氷”
明治中期以降は天然氷から機械製氷へと需要は移ってまいりますが、さて、機械製氷がいつ生まれたのかと申しますと、一般にはミュンヘン工業大学教授だったカール・フォン・リンデが明治6年(1873)頃に開発したアンモニア高圧冷却器による製氷技術といわれておりますな。ものの本には塩化カルシウムの水溶液をどうとかする、などとありますが、専門的なことはよくわかりません。ただ、これが後の冷蔵装置に多大な影響を与えたわけで、リンデは「冷蔵庫の父」などと呼ばれております。
ただこれには異説もございまして、アンモニアを使った製氷技術というのは、リンデ以前から存在していた。すでに幕末期にそのからくりを説いた文献が日本にも輸入されていたともいいます。それを裏づけるのが、近代日本を代表する啓蒙思想家、あの福沢諭吉を救ったといわれる氷の逸話です。
明治3年(1870)年の夏、福沢諭吉は突然の熱病によって床に伏してしまいます。夏風邪は長ごうございますからな。いや、これは容易ならざる高熱。いよいよ困ったもので御座る。塾生たちはどうかして先生の病状を快方に向かわせたい。何か良い方法はないか、と考えめぐらしていると、何でも福井藩主の松平春嶽という人が西洋渡来の氷つくりの機械を所有しているらしい。その人にたのめば、天は人の上に人をつくらないが、頭の上には氷がのるし、熱が下がったりして、と日頃の教えをこんなところに生かしたわけでございます。
「松平様、是非我らに氷をおさずけ下され」塾生らが大挙してお願いにあがると、春嶽先生困り果てた顔で、
「んなこと言われても困るしぃ。てえか、製氷機っての衝動買いしちゃったけどぉ、てんで使い方分からない? 家臣にナイショで買っちゃって激ヤバ? マジごまかす? 分かんないように物置にしまった? なんで持ってるの知ってる?」
ギャル男のような疑問形を発する春嶽先生を説得して、西洋渡来のアンモニア製氷機を借り受けた塾生たち。しかし、かの春嶽先生が理解できなかったものを、どう操作したらいいか皆目見当がつきません。
「ここに何か釦のようなものがあるから、手始めにこれを押してみるよろし」
何気に押したボタンがいきなりのビンゴ! 数刻のちには氷のかたまりが出てきたものだからビックリです。
「なんだ、まったくカンタンな機械ではないか」
実は子どもでも使える機械から出てきた氷によって諭吉先生の高熱も程なく下がり、さらに思想もクールになったことで近代日本を啓蒙的に導いていくのはご存知の通り。まあ、本当はどうか分かりませんが、たぶんそんなところでしょう。
“気組の人 和合英太郎”
話がそれすぎたら、どうしたら良いですか。まずは無理にまとめてみますと、機械製氷というものは明治初期から存在しておりまして、明治16年(1883)にはリンデ式製氷機械による東京製氷会社がつくられ、機械製氷の実用化がすでにあったわけでございます。天然氷の衰退を感じていた中川嘉兵衛が機械製氷へと鞍替えしたのは、そのような背景があったからですが、まさに機を見るに敏なり、でありまして、明治30年(1897)、巨額を投じて、東京本所、業平橋にイギリス製の50トン製氷機をもつ機械製氷株式会社を設立。わが国最大の製氷企業へと動き出すのでございますが、ここに中川嘉兵衛の命脈は尽きます。享年81歳の大往生で、氷の先覚者の遺志はその子中川佐兵衛に引き継がれました。長年父の下で氷の知識体験を会得していた佐兵衛は立派な後継者としてスタートを切ります。しかしまあ、人の縁とは不思議なものでございますから、あとになってみると人生の節目には必ず決定的な人との出会いがあったりしますな。
当時としては最高水準の製氷機械を引っ提げてスタートした機械製氷(株)。ところがここに大きな問題がございました。誰もそんな馬鹿でかい機械を操作できない。とりあえず英国から技師が来て据付け、操作指導を行うことになっていたのですが、
「大変です、エゲレス人来ません!」ドタキャンです。ゆっくりとお茶を飲んでいたら船に乗り遅れた、とかそんな事情でしょう。それじゃ仕方ない、誰か分かりそうな日本人はいないのか? ということでその道の大家と言われる博士に連絡してみましたが、「腹がいてえ」とか断られる始末。途方に暮れた会社は、とにかくすぐに何とかしなきゃならん、ということで、その場にいた若い技師に「おめ、やってみてよ」と無理難題頼みこみました。
この無謀な大役を仰せつかったのが後に会社の重鎮となる和合英太郎その人です。かれはつい最近まで機械金物の支配人として経営手腕をふるっておりましたのを、機械製氷(株)が技師兼支配人として招聘されたのですが、実は製氷に関してはまったくの素人。しかし、頼まれたら後には引けねえや、という気組の人だったんですな。とにかく一夜づけで知識を得ると、こけら落としの当日はこの据付工事の成就を神仏に祈願し、自らは匕首(あいくち)を懐にして、万が一失敗の場合は死をもって責を負うの覚悟で挑んだのでございます。まったくの鉄火肌でございます。現代の技術者では考えられないことでありますが、幸いなことに機械は正常に作動。勇み肌の力によって日本の製氷産業は産声を上げることとあいなりました。
ここからこの会社の快進撃がはじまりまして、明治40年(1907)には、先行の東京製氷(株)を吸収合併して日本製氷(株)となったのをきっかけに限りない買収・合併を繰り返し、大正6年(1917年)には、日本製氷(株)は、全国の製氷のうち40%を占めるまでに成長します。これは鉄火肌英太郎の経営手腕が物を言った結果だったようです。
現代でいうところのM&Aでしょうかね。幾たびもの買収・合併を繰り返した日本製氷(株)でありますが、そこには異常な株高を見込んだ投資家の過熱状況があったようでございます。いやはやマネーゲームというものは今も昔も変わらないのかもしれませんが、まあ、それほど製氷業というものが当時をして重要かつ注目度の高いベンチャービジネスだったわけです。さて、その後も日東製氷(株)、大日本製氷(株)、日本食料工業(株)、日本水産(株)、帝国水産統制(株)などと買収・合併を経まして現在のおなじみ(株)ニチレイへと至るのでございます。
“氷の大衆化”
昔の人にとって夏場に氷にめぐりあうなどは大変な驚きだったわけですが、製氷技術の進歩によって、これがとても身近になりました。医療用としても、また、生鮮魚を保存するにしても絶大な効果があったのはもちろんですが、庶民の手に入るほどに普及してくると、氷がいたるところで重宝がられ、これを楽しむという風情も出てまいります。
「カキ氷」なるものが初めて登場したのは文明開化の横浜は馬車道。アイスクリームの創始者でもあります町田房造という人によって世に出されました。明治2年5月のことで、中川嘉兵衛が苦心の「五稜郭氷」が使われたといいます。そのときにはもの珍しい代物であった「カキ氷」も、それから四半世紀後には機械製氷の普及によって「氷屋」が町のそこここに見られるようになり、一種の外食産業として一般化いたしますから「水商売」の際たるものがここにありますな。
また、氷を飲むというだけでなく、目で味わうということまで流行いたしました。「花氷」というものがそれで、字のごとく、氷の中に花をあしらうという風雅のものだったそうです。時の皇太子(後の大正天皇)が製氷工場を見学された際にいたくお気に召したというエピソードもございます。
大正頃になりますと、断熱材を用いた木製の冷蔵庫がつくられまして、料理屋を中心にやがて家庭用にまで普及してまいります。冷蔵庫と申しましても、氷を使って冷やす、今いうところのアイスボックスの親玉と思えば良いでしょうか。家庭でも手軽に食品保存ができるようになり、製氷産業もひとつのピークを迎えたともいえるでしょう。
“氷から誕生したコンビニ”
嘉兵衛の生涯をかけた事業として発展した氷産業。それは日本の水産業勃興を支えつつ発展しました。安定的な氷供給により鮮魚の流通が可能となり、生産流通量は増大、人びとが好きな魚を存分に食べられる時代に近づけました。
やがて電気冷蔵庫の普及により氷の需要は次第に低下していきます。さらなる技術革新によるコールドチェーンの実現に道をゆずるかたちとなったのでしょう。氷が保存流通の花形である時代はすでに過ぎたのかもしれません。
昭和30年代以降、業務用製氷の需要は減り続けましたが、その一方で売り上げを伸ばしているのが袋詰め氷なんですね。そのルーツは夏の甲子園のいわゆる「カチ割り氷」といわれておりますが、これがコンビニ向けなどに好調なのだそうです。家庭用冷蔵庫の普及で氷は手軽なものとなりましたが、おいしい氷を食べたければコンビニへ買いに行く、というのが現代のスタイルなのでしょう。
ところでこのコンビニというのはもともと氷屋さんの発展したものだそうなんです。日本のことではなくアメリカの1920年代のお話。その頃アメリカにも冷蔵庫はなくて、どの町にも夏場にだけ開く氷屋さんがありました。そのなかでテキサス州の一軒が大繁盛いたします。それはその店が週7日、一日16時間も開店したからなんですね。しかも氷ばかりでなく、たくさんの食品類も客の要望で置きます。あまりの繁盛に氷屋は夏場限りという業界の慣例を破り、とうとう年中無休にした。これを他の店にも導入したのがコンビニエンスストアの始まりだというんですな。
意外なところで氷が現代の生活に影響を及ぼしておるわけです。
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