“天ぷらは世界的料理だ
”
チャップリンさんは昭和7年に来日しまして各地で熱狂的な歓迎を受けます。しかし、日本の時局はまさに風雲急を告げておりました。「五・一五事件」の勃発。時の犬養首相が海軍青年将校に狙撃されるという大事件に遭遇するんですね。このときチャップリンさんは犬養首相のご子息と相撲観戦中でしたから突然の報に大変なショックを受けました。しかも、このクーデターには何とチャップリン暗殺まで計画されていたというから驚きです。アメリカの有名人を殺害すれば戦争を起こせるに違いない。というもくろみだったらしいんですが、実のところチャップリンさんはイギリス人ですから、とんだかん違いです。
しかし、そんな騒ぎをよそに本人はといえば、毎日せっせと好物の天ぷらに舌鼓をうっていたというからのん気なものですね。滞在中に食べた海老天が何と60本! いずれも一流とされる天ぷら職人の誂えたものばかり。しかも、帰国の際には魚河岸から上物の海老を調達し、氷川丸の船中でも食べ続けたというからスゴイ。
「天ぷらは世界的料理だ。味も栄養もこれにまさる料理はどこにもない」という最上のお言葉を残したチャップリンさん。でも、海老天以外は食べなかったんでしょうかね?
“天竺からふらりと…”
さて、そもそもなぜこれがテンプラなぞと名づけられたか? それはどこから来たものかとみてみますと、これはどうやら山東京伝が名づけたらしいということが定説になっているようです。
それによると、天明年間に大坂から駆落ちしてきた利介という者がおりまして、この男が江戸で何か商売しようと考えました。そのときに大坂では「つけあげ」という物があって大変に旨いのだが、江戸には「胡麻揚」という野菜の揚物の辻売はあるが、まだ魚肉の揚物はない、ということに思いあたったんですね。そうだ、魚の胡麻揚を拵えて売ろう!これは当たるぞお! でも、「魚の胡麻揚」ではどうも語呂が悪くていけないや。何とかうまい名前はないもんだろうか、と知り合いの京伝に相談してみたところ、京伝先生、すぐに「天麩羅」と紙に書いて寄越しました。天麩羅? さて、これはどういう意味なのか、と尋ねると、先生いわく、
「お前は天竺浪人で、ぶらりと江戸へ来て売り始めたからテンプラである。“麩”は小麦で作るものだし、“羅”とは薄物の意味だから、小麦粉を羅にかけて天麩羅。どうだ理にかなっておろう」
よくわけが分からないけど、利介はたいそう納得し、行燈を持ってきて、これに天麩羅と書いてもらって屋台店の角へ引っ掛けておきました。すると物珍しさからお客が集ってくる。それで利介の店はたいそう評判を取ったというお話です。
ところが、この京伝の話というのはちょっと眉ツバっぽい。どうも一杯かつがれたのではないかということで、「江戸名所図会(えどめいしょずえ)」の作者である斎藤月岑(さいとうげっしん)という人が調べてみると、天ぷらは天明期に京伝のネーミングではじまったのではなく、それより前、安永期の豊竹座の「昔唄今物語(むかしうたいまものがたり)」という浄瑠璃に「この辺でも人の知った生揚の権といふ男じゃ、こりゃ天麩羅よ・・・」と出てくると指摘しました。実際にこの浄瑠璃のなかには駕籠かきの連中が生揚だの、天麩羅だのをあだ名として使っていますし、もっと古くから天ぷらがあったことが分かります。
“てんふらり、テンペラート、テンペロ、テンプロ”
古今東西の天ぷら研究者がその起源を調べてみたところ、ずいぶん前から存在しているのではないか、しかも、どうやらその正体は外国から伝わったものらしいということが知れてまいりました。
たとえば「南蛮料書」という本の中に「てんふらり」というものが出てくるそうですな。
「なにうをなりともせぎり むぎのこつけ あぶらにてあげ そののち ちやうしのこ にんにくすりかけ しるよきやうにして にしめ申なり」
小麦粉をつけて揚げるというこの「てんふらり」、まさに天ぷらですね。この本がいつ書かれたのか不詳ではありますが、江戸時代以前であるらしい。
語源についても諸説があって、ポルトガル語の「テンペラート」(卵を溶くという意。ミケランジェロの壁画をテンペラ画というのと同じ)、同じくポルトガル語の「テンペロ」(料理するという意味)、スペイン語の「テンプロ」(寺院という意味)などがあります。
どうやら天ぷらは安土桃山時代に伝わった南蛮料理というのが本当のところらしいのです。ただ、その頃の日本では油といえば灯明用のものであり、食用に油を用いる習慣はありませんでした。ですから長崎に天ぷらが伝わってきたときには大変にハイカラな食べ物だったでしょう。そのころは胡麻油、榧油(かやあぶら)などを使いましたが、後には何と南京油(オリーブ油)が使われたといわれます。
“最初はコチコチに固かった天麩羅”
「てんふらり」だの「テンペラート」だのと呼ばれていた頃の天ぷらはコチコチに固く揚げたフライのようなものでした。ソバ屋の天ぷらなんてのが固めですが、あれよりもっと固いのじゃないかといわれてます。
それが天明期に屋台店が出来て、多くの人の口に入るようになると、しだいに魚のジューシーさを残すようなふっくらした仕上がりのものへと変化していったようですね。
そういう具合にみますと、南蛮から輸入された「てんふらり」は固いものだったのが、山東京伝のホラ話が出る頃には江戸人好みのふっくら天麩羅に化けたのじゃないかとも考えられます。
したがって、天麩羅は安土桃山時代から天麩羅はあったけれど、現在のようなかたちになるのは江戸後期と考えても良いのではないでしょうか。
“家康の命をうばった天ぷら”
徳川家康という人は実に慎重で、生活も質素実直を心がけた人として有名です。しかし、念には念を入れる人でも、全国制覇を成し遂げ、老境に到ったときに、ついつい食い気に走っちゃったんですね。
元和二年正月二十一日、堺の貿易商の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、この人は日本橋魚河岸の創始者の森孫右衛門の親分である茶屋四郎次郎の三代目にあたります。はるばる堺から駿府の家康のもとにやってまいりまして、京のことなどいろいろと話すなかに、ちかごろ京都では珍しい料理が流行っていて、鯛を胡麻油で揚げて韮を摺りかけて食べるのだが、これが人気があるうえ、なかなかに美味だというのです。
普段ならそんなことに耳をかたむける家康ではありませんが、「ワシも長年贅沢なんぞは一切してこなかった。そろそろ旨いものでも食いたいのお」という気になったのか、部下に命じて、大鯛、甘鯛を揚げさせて、腹一杯になるまでたいらげてしまったんです。いつもそんなふうに食べているならどうということもないのでしょうが、普段から質素な食事ばかりしているし、何といって高齢です。そこへ持ってきて、大量の揚物が胃に収まったものですから、身体の方でビックリしてしまったのでしょう。四時間後、突然苦しみだし、そのまま落命ということに相成りました。
天下餅をついた織田は光秀に討たれ、こねた豊臣を家康が滅ぼしますが、その家康を葬ったのが鯛の天ぷらだったわけです。世の無常というものを感じますね。
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