故石丸雄司氏がつづった銀座風物詩
「明治100年祭」を祝った商店街は銀座だけ
東京人の人気を集めた「銀座の夜店」の理由

 昭和34年から銀座通連合会につとめ、45年間、事務局長の大役を担って銀座の商店街と共に歩んできた石丸雄司氏が昨年11月19日、帰らざる人となった。銀座の生き字引きと言われるほど銀座の土地に精通していた。にもかかわらず黒衣に徹して、絶やさぬ独特の笑顔で人と人の和を作りだす名人でもあった。その石丸さんが40年をこす経験をもとに、銀座通連合会のホームページ「ギンザ・コンサージュ」に「私の銀座風俗史」を連載していた。銀座と共に生きてきた人にしか書けないものも多く、読みかえすと人柄がにじみ出て胸をうつ。そのいくつかを転載しました。



大銀座まつりの原点あれこれ

 大銀座まつりの原点は、あの東京オリンピックにあります。閉会式に鼓笛隊と郷土芸能のパレードがメインスタンドを行進し、その様子が全国にテレビ放送を通じて流されました。当時、銀座通連合会の催事委員長であった木村四郎さん(ストック商会社長)という方が、この開幕パレードを銀座通で再現したいと言い出しました。
 木村さんは日本デザイナークラブの初代会長として、日本最初のファッション・ショウを開催され、戦後のファッション界を創設された方ですから、なるほど着眼が違っていました。
 「それはいい」と、銀座のあらかたの賛成を得たまでは良かったのですが、その後の実現までの曲折の多さはひととおりではなく、ここでは述べきれません。割愛させて頂きます。
 原点が東京オリンピックの開幕パレードであったので、「まつり」の主眼をパレードに置いたのは当然と言えば当然でした。しかし、銀座の歴史を紐解いてみますと、銀座通りにパレードは明治時代からお馴染みの光景でありました。銀座すなわちパレードは、発想の原点でした。
 東京オリンピック当時の銀座旦那衆は、明治天皇の行列が数え切れないくらいの回数、銀座をお通りになったことを知っていました。日露戦勝パレード、震災復興祭パレード、皇室の祝賀パレードなど、銀座通が行列の道筋であることを体験として知っていたから、当然のように「それはいい」になったのでしょう。
 「それはいい」から始まったものの、実現の具体策に苦慮していた頃、時の政府は昭和43年(1968)10月に「明治100年祭」を企画しました。そして広く民間にも協賛するように求めていました。
 ご承知のように銀座は明治という時代とともに成長し、「明治100年」はすなわち「銀座100年」でもありました。そこでこの政府発表に真っ先に賛同、大銀座まつりの期日を政府の「明治百年祭」の予定日10月23日の前座に当たる10月11日から20日に設定し、総理府の後援を受けました。
 このことは「まつり」に関する諸々の難問解決に功を奏し、警視庁始めその他の行政機関の支援を獲得する遠因になり、「大銀座まつり」が実現したわけです。
 ちなみに、当時の東京都知事は革新知事の美濃部亮吉氏。明治100年の評価は政府と一致しない、というわけで東京都は協賛しないと明言。東京都で明治百年の記念行事を行った地域は、銀座のみでした。
 この点(夜の開催)については、企画会社の知恵が投入されました。「伸びゆく銀座・世界の銀座・光は銀座から」のキャッチフレーズ、亀岡雄策氏の光をテーマにしたシンボルマークの製作、から世界にも例のない夜のパレードの提案があり、銀座旦那衆も「それはいい」と決したのでした。



銀恋の碑の思惑はずれ…

 先年、石原裕次郎さんが惜しまれつつ亡くなった際、この歌(銀座の恋の物語)の作詞家・大高ひさをさんから、お弟子の人を介して「銀座に“銀恋”の碑を作りたいのだが」との相談をいただきました。ご希望の場所は銀座通3丁目松屋の角、国道の一角でした。「映画にも登場した松屋のそばに是非とも」というのが第一希望でしたが、国道はこのようなものを置くのに規制が厳しく、実現性が薄いと思われていました。他の場所を捜すこととなり、銀座を代表するのは4丁目、そのどこかがふさわしいということから、4丁目の数寄屋橋公園がノミネートされ、中央区の内諾をもとに関係者の意見調整が行われ、場所が決定され、次いで具体的な碑のデザインになり、2人分の座席、西洋風に言うと「ラブ・シート」ですが、その形に決定したわけです。
 平成2年7月の完成披露は大変なものでした。未亡人の石原まきこさん(かつての大人気女優・北原三枝さん)をはじめとして、デュエット相手の牧村美枝子さん、作曲家の鏑木さん、作詞家の大高さん、中央区長の矢田美英さんらが、数寄屋橋公園の碑の前で除幕式を行い、芸能畑の取材陣が多数駆けつけました。これだけの仕掛けを成功させ、場所は数寄屋橋公園とくれば、遠慮のない若いカップルには絶好のデートスポット。新しい銀座名所が一丁上がり、とほくそ笑んでいましたら、案に相違の素通りの碑。
 銀座には無数の恋が生まれ、そして結ばれているはずですが、意外に正面気っての「銀座の恋」は語られておりません。恋が物語になるには、ロミとジュリエットのように何か重大な制約があって阻まれなくてはならないのかもしれません。多分銀座には恋を育てるための背景がすべてそろっていて、制約どころか街の隅々に恋の促進剤が配備され、自然と恋が出来上がってしまうからかもしれません。あるいは、2人が銀座に出掛けるとき、すでに恋は仕上げの段階にあるからなのかもしれません。銀座の裏方としては、勝手にこう想像しています。
 従って、今回のお題「銀座の恋の物語」は、在るのにないもの、バーチャルな判じ絵みたいになりました。



銀座の夜店は武家の商法から

 銀座の夜店は祭礼の夜店とは発生の要因を異にする点で、まず違いがあります。明治維新で武士階級が失職したことはご存知の通りでありますが、この方々の再就職は容易ではなかったようです。
 俗に「武家の商法」と言われるように、慣れない商業に転じた方も少なくありません。銀座煉瓦街が出来た後、銀座通の広い歩道の車道寄りに夜店が出始め、365日営業を始めました。
 明治政府も暗にこの方々の更生を保護し、明治末期には銀座通の東側一帯に夜店が櫛比(しっぴ)するようになりました。自然に自治組織が出来、その名を「銀座正睦会」と称しました。
 もう一つ、現在の松屋通にも夜店が出て、これは「蟹睦会(かにむつかい)」と、称しました。聞き慣れない名前ですが、銀座通の正睦会に対し、横丁にあることから“蟹の横ばい”から蟹睦会と名乗ったわけで、しゃれた名前です。
 これらの組織は場所割り、電灯代の徴収、その他のもめごとの調停など、香具師(やし)・テキヤと無縁に自律したため、沿道の商店などとも特段の問題も起こさず、戦後には更生の地を東京都から与えるまでに、信用を築いていきました。
 銀座通の夜店の売り物の内容は、古物、書籍、雑貨、衣類、植木などの販売をする店のみで、これに対して松屋通側の夜店は飲食店が多かったようです。
 しかし、銀座の商店も夜店も戦争には無力そのもの。戦雲垂れ込めるとともに営業が出来なくなりました。続く敗戦後は、空襲と火事によって瓦礫が山積し、全員が露店状態でありました。
 そこへどういう理由か、突如占領軍から露店禁令が出され、銀座の夜店も強制的に排除される運命になってしまいました。戦争直後、日本中のありとあらゆる盛り場、駅前という駅前に焼け跡であれば露天市が開かれ、そのほとんどが暴力団が仕切っていた関係から、暴力事犯、統制違反などの経済事犯、占領軍物質の横流しなどが続出し、占領軍をたいへん刺激してしまったことが、昭和25年の露店排除令につながったものと想像出来ます。
 銀座通の夜店はそういう種類のものではないことは、歴史的に証明されていましたから、行政側も更生の便をはかりました。一時は数寄屋橋公園にマーケット形式で入れたり、最終的には30間堀の埋め立地2ブロックを与えて、銀座商業組合と改称した正睦会は立派な土地持ちになりました。この組合は先年、土地を売却して解散しました。