大銀座まつりの原点は、あの東京オリンピックにあります。閉会式に鼓笛隊と郷土芸能のパレードがメインスタンドを行進し、その様子が全国にテレビ放送を通じて流されました。当時、銀座通連合会の催事委員長であった木村四郎さん(ストック商会社長)という方が、この開幕パレードを銀座通で再現したいと言い出しました。
木村さんは日本デザイナークラブの初代会長として、日本最初のファッション・ショウを開催され、戦後のファッション界を創設された方ですから、なるほど着眼が違っていました。
「それはいい」と、銀座のあらかたの賛成を得たまでは良かったのですが、その後の実現までの曲折の多さはひととおりではなく、ここでは述べきれません。割愛させて頂きます。
原点が東京オリンピックの開幕パレードであったので、「まつり」の主眼をパレードに置いたのは当然と言えば当然でした。しかし、銀座の歴史を紐解いてみますと、銀座通りにパレードは明治時代からお馴染みの光景でありました。銀座すなわちパレードは、発想の原点でした。
東京オリンピック当時の銀座旦那衆は、明治天皇の行列が数え切れないくらいの回数、銀座をお通りになったことを知っていました。日露戦勝パレード、震災復興祭パレード、皇室の祝賀パレードなど、銀座通が行列の道筋であることを体験として知っていたから、当然のように「それはいい」になったのでしょう。
「それはいい」から始まったものの、実現の具体策に苦慮していた頃、時の政府は昭和43年(1968)10月に「明治100年祭」を企画しました。そして広く民間にも協賛するように求めていました。
ご承知のように銀座は明治という時代とともに成長し、「明治100年」はすなわち「銀座100年」でもありました。そこでこの政府発表に真っ先に賛同、大銀座まつりの期日を政府の「明治百年祭」の予定日10月23日の前座に当たる10月11日から20日に設定し、総理府の後援を受けました。
このことは「まつり」に関する諸々の難問解決に功を奏し、警視庁始めその他の行政機関の支援を獲得する遠因になり、「大銀座まつり」が実現したわけです。
ちなみに、当時の東京都知事は革新知事の美濃部亮吉氏。明治100年の評価は政府と一致しない、というわけで東京都は協賛しないと明言。東京都で明治百年の記念行事を行った地域は、銀座のみでした。
この点(夜の開催)については、企画会社の知恵が投入されました。「伸びゆく銀座・世界の銀座・光は銀座から」のキャッチフレーズ、亀岡雄策氏の光をテーマにしたシンボルマークの製作、から世界にも例のない夜のパレードの提案があり、銀座旦那衆も「それはいい」と決したのでした。
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