一番大切なことは、人間はたったひとりで、社会から離れては生きられないということです。また、ジャングルの中での原始的な生活を通して、思った以上に人間は強いものだということも感じました。必要な物はすべて自分で作るしかないので、創意工夫することが重要になってきます。衣服や帽子を作るための針や糸さえも自然の中にあるもので代用しました。また、自然の中で生きていると、野生化と言いますか、人間本来の感覚も研ぎ澄まされてきます。人間も自然の一部であり、自然の恩恵を受け、自然と共存しているのだということを、強く感じました。特に辛かったのは、雨です。ジャングルの雨は、上からだけではなく、下からも吹き上げて来ます。集中豪雨の続く間は、ひたすら身体を丸め体温の低下を防いで凌ぎました。
戦前の中国で欧米の文化には接していましたし、新幹線もカラーテレビも、開発が進められているという話は聞いていましたので、物質的な違和感はさほどありませんでした。それよりも、精神的な基盤と申しますか、思想的なものが全く変化してしまったことに、大変な戸惑いを感じました。報道関係の攻勢で、帰還直後はともかく人が怖く、当時の日本には自分の居場所がなかったような気がします。30年の空白を埋め、社会に復帰し順応するにはどうすれば良いか、虚脱状態の日々が続く中、戦後ブラジルに移住していた兄の誘いもあり、ブラジルに渡りました。
昭和50年、ブラジル中西部ボリビア国境にほど近い南マット・グロッソ州のバルゼア・アレグレ移住地に入り、国際協力事業団から1200ヘクタール(1200町歩)の土地を分譲してもらい、ジャングルの原野を切り開き、牧場の開拓に取り掛かりました。ルバング島のジャングルで牛の生態には精通していましたし、牛と自然を相手の牧畜なら、自分らしく生きられるのではと、新たな希望を持つことが出来ました。
52歳からの再出発、自ら労働の先頭に立ち、不眠不休の数年間を過ごしました。軌道に乗るまでの10年間は、資金が出ていくばかりの苦しい生活が続きましたが、現在は1800頭の肉牛を飼育し、年間400頭ほどを生産し、順調な牧場経営ができるようになりました。牧場での生活は、早朝5時に起き、馬に乗って3時間半ほど場内をパトロールし、放牧牛の状態や牧草の点検をします。また、経営者として1年先の年間事業計画を検討するなど、毎日が忙しく過ぎていきます。